徳永圀典の「日本歴史」K
平成19年4月

 1日 大開発の時代 平和な社会が到来し、人々は安心して生活向上を目指して働くようになった。幕府や大名も米の生産増産を望んだ。こうして全国で、干潟や河川敷などを中心に新田が開発された。 17世紀の百年間に、全国の田畑の面積は凡そ二倍近く増えた。まさに大開発時代の17世紀であった。今日、日本各地で見られる広々とした美しい水田の風景は、この時代に生まれたものである。
 2日 農業の生産性向上と年貢 開発に伴い、田畑を深く耕せる備中(びっちゅう)ぐわ、脱穀のために、(せん)()こきが用いられるようになり農作業の能率が向上した。肥料として(ほし)()油粕(あぶらかす)を用いるようにもなり土地の生産力が向上した 江戸時代の年貢率は「五公五民」とか「六公四民」という言葉があり収穫高の五割から六割が年貢だとされていた。然し、生産性の向上の結果、実際の収穫高は年貢の計算のもととなった数字の上での収穫高(17世紀初めの検地の時のもの)を遥かに越えて全体としては年貢は三割程度、中には十数パーセントの地域もあったという。
 3日 農産品 米の生産高の増加により人々の食生活に余裕が出来るとゆとりが生まれ、副食品、嗜好品、衣類の需要も高まった。その原料として野菜、お茶、麻、楮、藍、漆、紅、花、菜種などが、栽培に適した地域で本格的に生産されるようになった。
各藩も特産物の生産を奨励、それまで輸入に依存していた木綿、生糸の生産も増え、やがて

国内で自給できるようになって行く。こうした農法や栽培品種の新しい試みは様々な農書に掲載されて全国へと拡大した。農民は農繁期は多忙でよく働いたが、農閑期には豊かさがもたらすゆとりを背景に神社仏閣の参拝の旅に出かけるとか獅子舞や相撲、踊りなどで休日を楽しむようになった。 

 4日 諸産業の発達1. 大開発による農業の発展を受けて他の産業も発展して行く。江戸を初め各地で城下町の建設が進む。建築のための木材需要が高まり林業が盛んとなる。林業は田畑の大規模開発による森林荒廃や治水悪化に対する環境保全の役割を果たした。 肥料の干鰯の需要が高まり房総では網の使用によるイワシ漁が盛んとなった。また土佐沖のカツオ・クジラ漁、蝦夷地でのニシン、コンブ漁、瀬戸内海沿岸の製塩も発達した。
 5日

諸産業の発達2.

長崎の貿易では、銀や銅が日本の主要輸出品であり、生野銀山、足尾銅山、佐渡金山、など鉱山業が発展した。 幕府はこれらの鉱山を天領(直轄領)にして貨幣を鋳造した。また各地で酒造業、織物、漆器、陶器などの産業も発展した。
 6日 江戸の繁栄

将軍所在地の江戸は諸藩の江戸屋敷が置かれ参勤交代により全国から集まった大勢の武士が生活することから、「将軍のお膝元」と呼ばれ商人や職人も多数集まり、18世紀初頭には江戸人口は100万人を越えた。

「山の手」と「下町」の区別も17世紀半ばに生まれ下町に住む町人達は、武士の住む「山の手」を意識しながら「いき」の感覚に支えられた独特の町人文化を築いてゆく。
 7日 大阪 江戸時代前半は、東日本より西日本のほうが、農業や諸産業が発展していたので、大阪は米、木綿、醤油、酒などの様々な物産の集散地に「天下の台所」と呼ばれて栄えた。 各藩は大阪に「蔵屋敷」を置き、年貢米や特産品の売却を商人に依頼した。大阪の集められた物産の多くは、菱垣廻船樽廻船により江戸に運ばれた。
 8日 京都

江戸、大阪と並ぶ三都の一つ京都は西陣織や漆器、武具、蒔絵など高級工芸品を生産する手工業都市、そして朝廷の所在する文化都市として繁栄した。

また各地の城下町、門前町、宿場町が夫々の地域特性と伝統を活かして発展して行った。
 9日 交通路の発展 幕府は江戸を中心として東海道など五街道を整備し関所を置いて人々の通行の監督に努めると共に宿場を整えて手紙や小荷物を運搬する飛脚制度を設けて交通の便宜を図った。
海に囲まれ河川の多い日本は大量の物資を輸送するには水運が
便利である。内陸部で生産された物資を川を下る船で河口まで運びだし、各地の河口を繋ぐ海路で更に運搬した。17世紀半ばには、西廻り航路、東廻り航路が開かれて大阪と江戸を中心に全国の沿岸が海路で結ばれた。
10日 交通路の発展 幕府は江戸を中心として東海道など五街道を整備し関所を置いて人々の通行の監督に努めると共に宿場を整えて手紙や小荷物を運搬する飛脚制度を設けて交通の便宜を図った。海に囲まれ河川の多い日本は大量の物資を輸送するには水運が便利であ る。内陸部で生産された物資を川を下る船で河口まで運びだし、各地の河口を繋ぐ海路で更に運搬した。17世紀半ばには、西廻り航路、東廻り航路が開かれて大阪と江戸を中心に全国の沿岸が海路で結ばれた。
11日 内海(うつみ)(ぶね) 寛政から文化・文政期(18世紀末から19世紀初め)になると、江戸と大阪を結ぶ(たる)廻船(かいせん)()(がき)廻船(かいせん)と並び、知多半島を拠点とした内海船と呼ぶ船団が勢力を伸ばし、江戸から下関に至る海上輸送を担うようになった。伊勢湾、三河湾は古代から伊勢神宮への貢納物が集まる伊勢の大湊を中心に海上輸送が盛んで、航海技術の蓄積があった。 そして紀伊半島や伊勢湾奥の木曽川流域の豊富な木材資源が大湊の造船業を支えていた。江戸期となると樽廻船や菱垣廻船がこの地方に寄港し全国の市場や流通に関する情報をもたらした。知多半島では、半田や常滑の酒、武豊町の味噌など醸造業が発展、木綿栽培も隆盛した。このように古来からの航海技術と造船業を背景にこの地域の産業発展に促されて内海船による海運業が発展した。
12日 日光杉並木 江戸時代には参勤交代制度があり、為に幾つかの街道が作られ、並木を作るなど街道整備が行われた。日光街道の杉並木は世界有数の長さと言われる。松平正綱(1576−1648)という大名が杉並木に大きい関わりがあった。そもそもは東照宮が神君家康公を祭る為に元和元年、1617年、社殿が建立された。 その後寛永2年、1625年頃から20年以上の歳月をかけて、日光街道、例幣使街道、会津西街道の三街道に杉が植えられた。この大事業を行ったので相模国の2万2千石の大名・松平正綱であった。正綱は杉の苗、二十数万本植えた。ただし昭和12年には17128本、平成10年には13006本までに減少している。素晴らしい文化遺産のこの有様には驚く。
13日 元禄文化

三代将軍家光の頃、桃山文化を受け継いだ華やかな文化が栄えた。京都の俵屋宗達は「風神雷神図屏風」など動きのある装飾的な絵画を描いた。建築では、華麗な装飾で埋め尽くされた日光東照宮、数寄屋造りの桂離宮などである。

然し、江戸時代の文化がその独自性を見せたのは17世紀後半から18世紀にかけてである。この時代、上方の大阪や京都を中心に豊かな町人文化が生まれた、これを「元禄文化」と呼ぶ。商業の発達と社会の安定を背景に人間性を追及したものである。 

14日 元禄芸術 大阪の井原西鶴は町人の人生の喜びや悲しみを有りの儘に描いた浮世草子と呼ばれる小説をものした。歌舞伎が演劇として発展し、人形浄瑠璃では脚本家の近松門左衛門が義理と人情の世界で起きる男女の悲劇を題材に人々の涙を誘った。 松尾芭蕉は連歌から生まれた俳諧を芸術の域にまで高めた。絵画では宗達の画風を受け継いだ尾形光琳が「燕子花図屏風」などの秀作を残した。菱川師宣は町人の風俗を描いた浮世絵を初め版画として庶民に愛好された。
15日 儒教の発展と学問 戦いもない平和な社会となった江戸時代、武士や町人の間で学問が発達した。
武家の社会では儒学が時代の安定に役立つとして奨励され学問の中心となった。
家康は、日本に朱子学を確立した林羅山を重用し、綱吉も湯島聖堂を建てるなど儒教を重んじた。
16日 国学 中江藤樹は明の王陽明が起した実践を重んじる陽明学を学んだ。山鹿素行、伊藤仁斎、荻生徂徠らは孔子の教えに直接学ぼうとする古学の立場から儒学を研究した。時代の現実的、合理的影響を受けて事実に基づいて歴 史を研究する動きが起こった。水戸藩主の徳川光圀は学者を集めて「大日本史」の編纂を始め、後の「国学」を基礎づけた。
徳永圀典の「至誠」に関する考察。
17日 自然科学 日本独自の発達が自然科学でも見られた。宮崎安貞は「農業全書」を記して農学を集大成した。関孝和は方程式の解法や円周率を独自に発見して「和算」と 呼ばれる「日本式数学」を確立した。医学、天文学、暦学なども発達した。日本の科学は西洋諸国に比べても当時既に高い水準に達していたのである。
18日 地方文化

事例研究
松江藩と鳥取藩

地方の旧跡、風物、年中行事、祭礼などには、その地域の歴史が刻み込まれている。その地域の人となり性格、頭脳、レベルなどの民度が端的に表現されている。例えば、松江の全県に渡る産品を観光会館で見ると、もう全国レベルの産品ばかりでつくづく感心する。中でも和菓子とお茶は京都と金沢に次ぐレベルであろう。

私は、これは松江藩の松平不昧公に在ると直感する。この藩の禄高は16万八千石、対する鳥取藩は32万石、だが産品には鳥取には見るべきものがない。私は鳥取藩主は徳川最期の将軍慶喜の腹違いの兄だが、推測だが東京にいて治世が民に向かっていなかったのだと思う。この松江藩主と鳥取藩主の治世の相違ではないか。
19日 熊本藩 16世紀末、豊臣氏の武将、加藤清正が肥後の領主となる、江戸初期にかけて現在の熊本城を築き城下町を整えた。清正は今日でも清正公として親しまれ町の祭礼や食べ物にも清正にちなんだものが多い。清正の命日である7月23日には菩提寺の本妙寺で「頓写会」の祭事があり賑わう。 これは清正公の三回忌に、熱心な日蓮信者であった清正を弔うために法華経を一晩で写経したことに因む行事である。9月11日から15日にかけては藤崎八幡宮で「随兵」の大祭があり清正の朝鮮遠征に因む馬追い行事である。熊本名物の朝鮮飴や赤酒も清正が朝鮮からの伝えたという。
20日 水前寺公園と細川家 17世紀半ば、加藤家に代わり藩主となった細川忠利が建立した水前寺がこの公園の前身である。忠利の孫綱利が豪放な性格で、今日のような見事な庭園として完成させた。細川氏は元来、足利将軍家に仕えて京都の伝統文化への造詣も深かった。 細川家初代の藤孝が後陽成天皇の弟・桂宮智仁親王に古今集の秘伝を伝授したが、その時の茶室が大正時代に京都からこの園内に移築された。藤孝は千利休に学びその子忠興も利休の遺族を優遇したことから熊本に独特の茶道が栄えるもととなった。
21日 熊本の植木市

2月から3月にかけて熊本では植木市、8月の精霊流しなど情緒ある風物詩が残っている。

これらは江戸期を更に遡る長い歴史に培われたものだが、やはり英邁な藩主と地元人の親和と治世の宜しきを得た結果であろう。
22日 勤勉性の発祥 それは江戸時代からである。戦国時代のように戦いに巻き込まれ生命を失う恐れが無くなり真面目に働いただけの成果が約束されてきたのだ。一生の間、働いて蓄えたものを子孫に伝えることが出来ることになった。子孫も家の仕事を引き継いだり財産を残して呉れた先祖に感謝することが自然に行われるよう になった。先祖伝来の家業に励むことが人間としての安心立命につながるという考えが広がった。江戸初期の国土の大開発はこうした勤勉思想によるものである。然し元禄時代の派手な生活により商人の没落も多数出来て、勤勉思想と倹約思想が実感されてきたのである。
23日 石田(いしだ)梅岩(ばいがん)

前述のような勤勉と倹約の精神に理論的な根拠を与え、それを分かり易く町人たちに説いたのが石田梅岩1685−1744である。京都府は丹波の山村に生まれ幼少より京都の商家で働いた。

梅岩は人間の理想の生き方を求め、様々な読書を重ね、遂に赤ん坊のような自然の無心な状態こそ人間の「本心」であると考えるようになった。
24日 石門(せきもん)心学(しんがく) 梅岩(ばいがん)は自然の中の鳥や獣が夫々の仕方で生活を営んでいるように人間にも「本心」のままに行動して、なお社会が営まれて行くような自然な生き方=「形」があるはずだと考えた。そしてその「形」とは自らの勤労によって生活

を営みこの世の財貨を無駄に消費しないという倹約の精神であった。梅岩はこの考え方を単に町人だけでなく武士にも共通する道徳だと説いた。梅岩の教えは「石門心学」と呼ばれ多くの後継者に恵まれて人々の間に広まった。 

25日 二宮尊徳 幕末の農政家である1787−1856。相模の農家に生まれた。幼児の頃、川の氾濫で家の田畑が水没、10代で両親を失う。伯父の家で世話になったが不幸に挫けず自力で家を復興しようとした。昼の仕事を終えた夜には自分が植えた菜種からの油で灯をともして読書した。 尊徳は自分の経験から学ぶことも怠らなかった。捨ててあった苗を植えて見ると一俵ほどの米が取れたのを見て、「積小致(せきしょうち)(だい)」(小さいものを積み重ねて大きな結果を得る)という法則を悟った。
26日 仕法(しほう)

家の再興を遂げた尊徳はそれに満足せず小田原藩の家老・服部家に奉公してその子弟が通う藩校にお供し講堂から漏れ聞く講義で勉強した。後に尊徳は服部家の家政の再建を依頼されて成功し更に各地の家や所領の再

建を頼まれた。尊徳の方法は、勤勉と倹約を合理的な方法に高めたもので「仕法」と呼ばれ有名になった。多くの賛同者が生まれ、報徳社という結社が成立して明治以降も発展して行く。
27日 文治(ぶんち)政治

17世紀半ばとなると、戦国時代の気風も弱まり幕府の統治も次第に安定してきた。そこで幕府は大名に対しそれまで行ってきた領地を取り上げたり削ったりする厳しい対応を改めるようになった。大名を取り潰すと浪人が増えて社会不安の原因となったからである。

五代将軍綱吉は武士達が殺伐とした行動に出ないように生類哀れみの令を発して子供や病人を捨てることを禁じ、犬から虫に至るまでの一切の生き物の殺傷を禁じた。(1687年)。また湯島聖堂で孔子を祭るなど儒教の普及に努めた。武道より学問を重んじた綱吉の政治を「文治政治」と言う。
28日 儒学の台頭 各藩でも藩校を設け儒学による武士教育に努めるようになった。然し生類憐みの令は犬を斬ったために島流しになるなど多くの人を苦しめた。また綱吉は仏教や神道を盛んにするため、多くの寺院や神社の造営を行い

、これにかかる費用で幕府は財政難に陥った。幕府は貨幣改鋳で貨幣の量を増やして収入を増加させたが、これは物価高を引き起こし人々の生活を圧迫した。 

29日 正徳(しょうとく)()

綱吉が死去した後、新井白石が登用され、生類憐みの令を直ちに廃止した。また貨幣の価値を復元し物価高を抑えた。これを正徳の治という。

然し、それが今度は不景気の元となり新井白石の政策も効果を挙げることができなかった。
30日 湯島聖堂 五代将軍綱吉は武士の教育の為に湯島聖堂の敷地内に学問所を設立した。 そこには旗本の子弟などが入学した。武士の時代の終焉であり、平和の時代の武士改革で狙いは良かったのである。