雍也 第六

平成28年7月29日--7月28日 

原文 読み 岫雲斎「口語訳」
29日 一、
子曰(しのたまわく)雍也可使(ようやなんめん)南面(せしむべし)
子曰く、雍や南面せしむべし。

孔子が申された、
冉雍(ぜんよう)は人君となれる人物である」。

30日

二、
(ちゅう)(きゅう)問子(しそうはく)(しを)伯子(とう)子曰(しのたまわく)可也簡(かなりかんなればなり)仲弓曰(ちゅうきゅういわく)居敬而行簡(けいにおりてかんをおこない)(もって)(そのた)(みにの)(ぞまば)不亦可乎(またかならずや)居簡而行簡(かんにおりてかんをおこなわば)無乃大簡乎(すなわちだいかんなることなからんや)子曰(しのたまわく)雍之(ようのげ)(んし)(かり)

仲弓(雍のあざな)、子桑伯子を問う。子曰く、可なり、簡なればなり。仲弓曰く、敬に居て簡を行い、以てその民に臨まば、亦、可ならずや。簡に居て簡を行わば、すなわち大簡なることと無からんや。子曰く、雍の言、然り。 仲弓が子桑伯子について質問をした。孔子が申された、
「なかなかの人物だ、こせこせせず、諸事に亘り簡潔に事を為す」。
仲弓が言った、他者に対し慎重、行動が簡潔、かかる方法で人民に臨むのが宜しいと思います。しかし、大まかで行動も簡潔であれば、余りに大雑把で無秩序になってしまうのではないでしょうか。
孔子は言われた、
「その通りだ」。
7月
1日

三、哀公(あいこうと)(えらく)弟子孰(ていしだれ)(おかがく)好学(をこのむとなす)孔子対曰(こうしのたまわく)(がんか)(いなる)回者(ものあり)好学(がくをこのめり)不遷怒(いかりをうつさず)不弐過(あやまちをふたたびせず)不幸短命死矣(ふこうたんめいにしてしせり)今也則(いまやすなわち)(なし)未聞(いまやがく)好学者也(をこのむものをしかざるなり)

哀公問う、弟子孰か学を好むと為す。孔子対えて曰く、顔回なる者あり。学を好めり、怒りを遷さず、過ちをふたたびせず。不幸、短命にして死せり、今や則ち亡し。未だ学を好む者を聞かざるなり。

哀公が尋ねた、弟子の中で誰が学問を好むか。孔子は申し上げた、「顔回がいました。修養し、怒りに振り回されることなく、同じ間違いも二度と繰り返したことはありません。しかし、不幸にも短命にして死んでしまい、もうこの世にはおりません。以後、学問一心の者を存じません。

2日

(まさんこと)(をこう)曰与之臾(これにゆをあたえよ)冉子与之粟五秉(ぜんじこれにぞくごへいをあたう)子曰(しのたまわく)赤之適斉也(せきのせいにゆくや)(ひば)()(のり)衣軽裘(けいきゅうをきる)吾聞之也(われこれをきけり)君子(くんしは)(きゅう)(にあま)不継(ねくしてとめる)(につかず)

子華、斉に使いす。冉子、その母の為に粟を請う。子曰く、これに釜(ふ)を与えよ。ふやさんことを請う。曰く、これに臾(ゆ)を与えよ。冉子、これに粟五秉(ごへい)を与う。子曰く、赤(せき)の斉に適く(ゆく)や、肥馬に乗り軽裘(けいきゅう)を衣る。吾これを聞けり、君子は急にあまねくして富めるを継かず。

子華が斉国に使いをした。冉子が子華の母親の見舞いに粟を貰いたいとお願いした。孔子は申された、「釜――六斗四升―を与えよ」。冉子がもう少し欲しいお願いした。孔子は申された、「臾(ゆ)―十六斗―を与えよ」。冉子はまだ少ないと、五秉(ごへい)―80斛を子華の母親に与えた。孔子が申された、「子華は斉国に出かける時に、駿馬に乗り、高級な軽い毛皮の服を着ていた、豊かではないか。君子は、困窮した者を助けるが、富裕な者に更に継ぎ足しはしない」。

3日 五、
原思為之(げんしこれがさい)(となる)与之(これにぞく)(きゅうひゃく)九百(をあたう)(じす)子曰(しのたまわく)(なかれ)以与爾隣里郷党乎(もってなんじりんりきょうとうにあたえんか)

原思(げんし)、宰(さい)となる。これに粟九百を与う、辞す。子曰く、毋かれ(なかれ)、以て爾(なんじ)の隣里郷党に与えんか。

孔子の弟子・原思が領地の地頭となった。孔子は原思に粟九百を給与として与えた。原思は、この厚遇を辞退。
孔子は申された、「辞退するな。どうしても受け取りたくなければ、隣近所の人々に分け与えれば良い」。
4日 六、
子謂仲弓曰(しちゅうきゅうにいいてのたまわく)犂牛之子(りぎゅうのこもあかく)(かつつ)(のあ)(らば)雖欲勿(もちうるなからんとほっすと)(いえども)山川其舍(さんせんそれこれを)(すてんや)
子、仲弓を謂いて曰く、犂牛(りぎゅう)の子も辛く(あかく)且つ角(つの)あらば、用うる勿からん(なからん)と欲すと雖も、山川それこれをすてんや。 孔子がこう申された、
「鋤を引くまだら牛の子でも、赤毛で立派な角があれば、人間が祭祀の犠牲に捧げないでおこうと思っても、山川の神様がその牛を放ってはおかないだろう」。
5日 七、
子曰(しのたまわく)回也(かいや)(その)(こころ)三月不違(さんげつじん)(にたがわず)其余則(そのよはすなわち)日月至焉而已矣(いちじついちげつにいたるのみ)
子曰く、
回や、その心、三月、仁に違わず。その余は則ち一日、一月にいたるのみ。
孔子が申された、
「顔淵は人間として立派な状態である。他の諸君は、一日とか一ヶ月くらいなものだ」。
6日 八、
(きこう)康子(しとえ)(らく)仲由可使従政(ちゅうゆうはまつりごとにしたがわしむ)(べきか)子曰(しのたまわく)由也果(ゆうやか)於従政乎(まつりごとにしたがわしむに)(おいてなにか)(あらん)(のたまわく)賜也可使従政也(しやまつりごとにしたがわしむ)(べきか)(のたまわく)賜也(しやたつ)(なり)於従政乎(まつりごとにしたがうに)(おいて)(なにかあらん)(のたまわく)求也可使従政也(きゅうやまつりごとにしたがわしむ)(べきか)(のたまわく)求也(きゅうやげ)(いなり)於従政乎(まりごとにしたがうにおいて)(なにか)(あらん)

季康子問う、仲由は政に従わしむべきか。
子曰く、由や可なり、政に従うに於いて何かあらん。
曰く、賜は政に従わしむべきか。
子曰く、賜や達なり、政に従うに於いて何かあらん。曰く、求は政に従わしむべきか。
子曰く、求や芸あり、政に従うに於いて何かあらん。

季康子が聞いた、仲由=子路は政治に用いることができるか。
孔子は申された、「子路は決断力に優れており、何の問題なし」。
季康子、子貢に、
孔子は申された、「子貢は企画力に優れ政治に何の問題なし」。冉有は如何。
孔子が申された、「冉有は多能であり政治に於いてもなんら問題なし」。
7日 九、
季氏使閔子騫(きしびんしけんをしてひのさいと)為費(なら)(しむ)閔子騫曰(びんしけんいわく)善為我辞焉(よくわがためにじせよ)(もしわれ)(をふたた)(びす)我者(するものあれば)則吾必在(すなわちわればかならずぶん)文上矣(じょうにあらん)
季氏、閔子騫をして費の宰とならしむ。閔子騫曰く、善く我が為に辞せよ、如し我を復びするものあれば、則ち吾は必ず文上に在らん。 季氏が、閔子騫を費の宰相に任命しようとし使者をさしむけた。閔子騫は使者に言った。よく季氏に辞退の意志をお伝え下され。再び私を宰相に任命しようとされるのであれば、私は魯国を出て文水のほとりに居りましょう。
8日 十、
(はく)牛有疾(ぎゅうやまいあり)子問之(しこれをとう)自扁孰(まどよりそのてをと)其手(りていわく)(のたまわく)亡之(これぞなからん)命矣夫(めいなるかな)斯人也(このひとにして)而有斯疾也(このやまいあり)斯人也(このひととにして)而有斯疾也(このやまいあり)

伯牛、疾有り。子、これを問う。扁(まど)よりその手を執りて曰く、これぞなからん、命なるかな。斯の人にして斯の疾あり、斯の人にして斯の疾あり。

冉伯牛(ぜんはくぎゅう)が病気―ハンセン病―に罹った。お見舞いに行かれた孔子は窓から冉伯牛の手を取って申された、「病が伯牛を滅ぼそうとしている、こんなことがあってよいのか。こんなことがあってよいのか。
9日 十一、
子曰(しのたまわく)賢哉回也(けんなるかなかいや)一箪食(いったんのし)一瓢飲(いっぴょうのいん)在陋巷(ろうこうにあり)人不堪其憂(ひとはそのうれいにたえず)回也不改(かいやそのたのし)(みをあ)(らためず)賢哉回也(けんなるかなかいや)
子曰く、賢なるかな回や、一箪の食、一瓢の飲、陋巷に在り。人はその憂いに堪えず、回はその楽しみを改めず。賢なるかな回や。 孔子が申された、
「顔回は賢明な人物だ。竹作りの弁当箱一杯の食事と瓢水筒一杯の水で裏町暮らし。普通の人はその辛さに耐えられないだろうが、顔回は質素な生活の楽しみを改めない、顔回は何と立派な人物であろうか。
10日

十二、
冉求曰(ぜんきゅういわく)(しのみ)不説子之道(ちをよろこばざるにあらず)(ちから)不足也(たらざるなり)子曰(しのたまわく)(ちから)不足者(たらざるものは)中道而廃(ちゅうどうにしてはいす)今女画(いまなんじはかぎれり)

冉求曰く、子の道を説ばざるに非ず。力足らざるなり。
子曰く、力足らざる者は中道にして廃す、今汝は画れり。
冉求が言った、先生の道が嫌いではないのです。私の力不足なのです。
孔子が申された、
「力不足の者は途中で投げ出す、お前は初めから自分の力を見限っているだけだ」。
11日

十三、
子謂子夏曰(ししかにいいてのたまわく)女為君子儒(なんじくんしじゅとなれ)無為小人儒(しょうじんじゅとなるなかれ)

子、子夏に謂いて曰く、女、君子の儒と為れ、小人の儒と為る無かれ。 孔子が申された、
「お前は君子の如き器量と礼節ある学者になれ。小人の如き、偏狭な学者になってはいけない」。
12日

十四、
子游(しゆう)(ぶじ)(ょう)(のさい)(となる)子曰(しのたまわく)女得人焉爾乎(なんじひとをえたるか)(いわく)有澹台滅(たんだいめつめいと)明者(いうものあり)行不由径(いくにこみちによらず)非公事(こうじにあらざれば)未嘗至於偃之室也(いまだかってえんにしつにいたらず)

子游、武城の宰と為る。
子曰く、汝、人を得たるか。曰く、澹台滅明という者あり。行くに径(こみち)に由らず、公事に非ざれば、未だ嘗て偃の室に至らず。
子游が武城の領主になった。孔子は申された、
「お前は、誰か人材を得たか。子游はお答えした、澹台滅明という者がおります。正道を歩み、近道せず、公用以外は私の部屋に入りません。
13日

十五、
子曰(しのたまわく)孟之(もうしはん)反不伐(ほこらず)奔而殿(はしりてしんがりす)(まさに)入門(もんにいらんとす)策其馬曰(そのうまにむちうちていわく)非敢後也(あえておくるるにあらず)馬不進也(うますすまざるなり)

子曰く、孟之反、伐らず。奔りて殿(しんがり)す。将に門に入らんとす、その馬にむちうちて曰く、敢えて後るるに非ず、馬進まざるなり。 孔子が申された、
「孟之反は自慢をしない。軍が敗北した時はしんがりをした。遅れて城門に入る時、馬を鞭打ちて言った、わざと、しんがりを守り遅れたわけではない、馬が進まなかった」。
14日

十六、
子曰(しのたまわく)不有祝它之佞(しゅくだのねいあらざれば)而有宋朝之(そうちょうのびあ)(るも)難乎免於今之世矣(かたいかないまのよにまぬかるること)

子曰く、祝它の佞あらざれば、宋朝の美あるも、難いかな、今の世に免かるること。

孔子が申された、
「大夫・祝它のような優れた弁舌が無ければ、美貌公子・宋朝のような美貌があっても今の世を乗り切る事は難しい」。
15日 十七、
子曰(しのたまわく)(だれか)(よくい)(ずるに)不由(こによらざ)(らん)何莫由斯道也(なんぞこのみちによるなきや)
子曰く、誰か能く出ずるに戸に由らざらん、何ぞ斯の道に由る莫きや。 孔子が申された、「出る時に戸口を通らないでいられない、どうして人の道を踏まないで歩めるか」。
16日 十八、
子曰(しのたまわく)(しつ)(ぶん)文則(にかたばすな)(わちや)(ぶんしつ)勝質則史(にかたばすなわちし)文質(ぶんしつ)(ひんぴん)(として)(しかる)(のち)君子(くんしなり)
子曰く、質、文に勝たば則ち野、文、質に勝たば則ち史、文質彬彬として然る後、君子なり。

孔子が申された、
「質朴さ、剛毅さが情緒・知性を超えると野卑、質朴さが見えず文弱が過ぎると史、この野と史の情緒と外見が程よく調和して初めて君子なり」。

17日

十九、
子曰(しのたまわく)人之生也(ひとのいくるやちょ)(くたれ)罔之生也(これなくしていくるは)幸而免(さいわいにしてまぬかるるのみ)

子曰く、人の生くるや直、これ罔くして生くるは幸いにして免るるのみ。 孔子が申された、
「人間はまっすぐに生きるのが良い。それが無ければ、僥倖に過ぎない」。
18日 二十、
子曰(しのたまわく)知之者(これをしるものは)不如好之者(これをこのむものにしかず)好之者(これをこのむものは)不如楽之者(これをたのしむものにしかず)

子曰く、これを知る者はこれを好む者に如かず、これを好む者はこれを楽しむ者に如かず。

孔子が申された、
「道理を理解しただけでは、道理を実践することには及ばない。またそれを実践しただけでは、道理の境地に到り、物事を心から楽しんでいる人にはかなわない」。
19日 二十一、
子曰(しのたまわく)中人(ちゅうじん)以上(いじょうは)可以(もってかみ)語上也(をつぐべきなり)中人(ちゅうじん)以下(いかは)不可以(もってかみを)語上也(つぐべからず)
子曰く、中人以上は、以て上をつぐべきなり、中人以下は、以て上を語ぐべからず。 孔子が申された、
「平均以上の知性・教養を持つ人物は高度な話ができる。しかし、平均以下の者は高度な話をしてはならない」。
20日

二十二、
樊遅(はんち)(ちを)(とう)子曰(しのたまわく)務民之(たみのぎを)(つとめ)敬鬼神而遠之(きしんをけいしてこれをとおざくれば)可謂知矣(ちというべし)(じんを)(とう)子曰(しのたまわく)(じんとは)者先難而後(かたきをさきにしうるを)(あとにす)可謂仁矣(じんというべし)

樊遅、知を問う。
子曰く、民の義を務め、鬼神を敬してこれを遠ざく、知と謂うべし。仁を問う。
子曰く、仁とは難きを先にし、得るを後にす、仁と謂うべし。

樊遅が知についてお尋ねした。孔子が申された、
「人民としての義務を果たすように努め、祖先・神霊を尊ぶ、これが知と言える」。
仁について質問した。
孔子が申された、
「仁者は、困難に取り組むを第一とし、結果は第二とすると言えようか」。
21日

二十三、
子曰(しのたまわく)知者(ちしゃはみず)(をこ)(のみ)仁者(じんしゃはやま)楽山(をこのむ)知者動(ちしゃはどう)仁者(じんしゃは)(せい)知者(ちしゃはた)(のしみ)仁者(じんしゃはいの)寿(ちながし)

子曰く、知者は水をこのみ、仁者は山をこのむ。知者は動、仁者は静。知者は楽しみ、仁者はいのちながし。

孔子が申された、
「知者は水を好み、仁者は山を楽しむ。知者は動的、仁者は静的である。知者は積極的に人生を楽しみ、仁者は静かで、天寿をつつがなく生きる」。
22日

二十四、
子曰(しのたまわく)斉一(せいいっぺん)(すれば)至於魯(ろにいたたらん)(ろいっ)一変(ぺんすれば)至於(みちにいた)(らん)

子曰く、
斉、一変すれば魯に至らん、魯、一変すれば道に至らん。
孔子が申された、
「斉国が一度変革すれば王道の魯国のようになれる。魯国も変革すれば理想の国になれる」。
23日

二十五、
子曰(しのたまわく)觚不觚(ここならず)(こなら)(んや)(こなら)(んや)

子曰く、觚、觚ならず、觚ならんや、觚ならんや。

孔子が申された、
「伝統的な觚の杯も本来の觚でなくなった。これが觚なのか、これが觚なのか」。

24日

二十六、
宰我問曰(さいがとうていわく)(じん)者雖告之曰(じんしゃはこれにつぐるにせいに)井有仁焉(じんありというといえども)其従之也(それこれにしたがわんや)子曰(しのたまわく)何為其然也(なんすれどそれしからん)君子(くんしは)可逝也(ゆかしむべきも)不可陥也(おちいらしむべからず)可欺也(あざむくべきも)不可罔也(しうべからず)

宰我、問うて曰く、仁者はこれに告ぐるに井(せい)に仁ありと曰うと雖も、それこれに従わんや。子曰く、何すれぞ、それ然らん。君子は逝かしむべきも、陥らしむべからず。欺くべきも、しうべからず」。

宰我がお尋ねした。仁者は、(嘘であっても)井戸の中に人が落ちたと聞けば、即座に井戸に飛び込むでしょうか。孔子が申された、
「どうしてそんなことをするのか。君子ならそこに行くべきだが、井戸の中にまではない。君子を騙まして現場に行かせることはできても、状況を確認しないまま飛び込むわけにはゆかない」。
 

25日

二十七、
子曰(しのたまわく)君子博学於(くんしはひろくぶん)(をまなび)約之以(これをやくするにれいを)(もってせば)亦可以弗畔矣夫(またもってそむかざるべきか)

子曰く、
君子博く文を学び、これを約するに礼を以てせば、亦以て畔むかざるべきか。

孔子が申された、
「君子が、幅広く学び、帰納してゆく時、礼に基づくのであれば、間違いはない」。
26日

二十八、
(しな)(んし)南子(にまみゆ)(しろ)(よろ)不説(こばず)夫子矢之曰(ふうしこれにちかいていわく)予所(よのいなとすると)否者(ろのものあらば)天厭之(てんこれをすてん)天厭之(てんこれをすてん)

子、南子にまみゆ。子路説ばず。夫子これに矢いて(ちかいて)
曰く、予の否とするところのものあらば、天これをすてん、天これをすてん。
孔子が南子に会われた。弟子の子路はこれを不満に思った。
孔子は子路に、「私にもし間違いがあったらば、天は私をお見捨てるになるであろう、天は私をお見捨てになるであろう」。
27日

二十九、
子曰(しのたまわく)中庸之為徳也(ちゅうようのとくたる)其至矣乎(それいたれるかな)民鮮久矣(たみすくなきことひさし)

子曰く、
中庸の徳たる、それ至れるかな。民すくなきこと久し。
孔子が申された、
「中庸の徳は至高の徳である。しかし、人民は中庸の徳を欠いて随分と長い時が流れている」。
28日

三十、
子貢曰(しこういわく)如有博施於(もしたみにひろくお)(よぼして)(よく)能済(しゅうをすくう)(あらば)何如(いかん)可謂仁乎(じんというべきか)子曰(しのたまわく)何事於(なにをじんをこと)(とせん)必也聖乎(かならずやせいか)堯舜(ぎょうしゅ)(んもそ)猶病(れこれをや)(めり)(それじん)仁者(しゃはおのれ)(たたんと)(ほつすれ)(ばひと)而立人(をたつ)己欲達而(おのれたたんとほっすれ)達人(ばひとをたっす)(よくちか)(くにた)(とえを)(とる)可謂仁之方也已(じんのほうというべきのみ)

子貢曰く、もし民に博く及ぼして、能く衆をすくうあらば、何如(いかん)。仁と謂うべきか。
子曰く、
何を仁を事とせん、必ずや聖か。尭・舜もそれ、これをを病めり。夫れ仁者は己立たんと欲すれば、人を立つ、己達せんと欲すれば、人を達す。よく近くに譬えを取る。仁の方(みち)と謂うべきのみ。

子貢が質問をした、もし人民に広く恩恵を与えて、大衆を救済することができれば、どうですか。これを仁と呼んでもいいでしょうか。

孔子が申された、
「どうしてそれが仁のみに留まらない、聖である。尭・舜の聖人でさえ、この問題を気にかけた。仁者は自己が立ちたいと思えば先ず他人を立たせる。自分が達成したいと思えば他人に先に達成させるのただ。それが、仁徳の道というものだ」。