徳永圀典の「日本歴史」 8

           古代東アジアの日本

平成18年8月

 1日 中国の史書に書かれた日本 日本の弥生時代、中国では秦と漢の二つの古代帝國が栄え優れた官僚組織と軍事組織を持つ強大な国家であった。

紀元前1世紀頃、漢書(かんじょ)には「倭人(わじん)」と日本人を呼び余りの小国があったとしている。後漢書(ごかんじょ)の「東夷伝(とういでん)」は1世紀中頃、倭の奴国(なこく)が漢に使いを送って来たので皇帝が印を授けたとある。江戸時代にこの金印は志賀島で発見された。

 2日 中国人の傲慢は古代から 倭も奴も侮蔑の文字である。中国皇帝の権威を示す手段として中国歴史家は常に周辺国を見下す言い方をした。 東夷も「東の野蛮な人々」の意。卑弥呼の文字にも卑しいの文字を使用している。
 3日 邪馬台国と卑弥呼(ひみこ)1. 3世紀になると漢が滅び、()()(しょく)という三国が争う時代となる。その中の魏と親交を結んだ国が日本列島の中にあり魏から使者が来た。 3世紀末、中国で書かれた「三国志」にも「東夷伝」があり、日本に関する部分が「魏志倭人伝」と呼ばれている。
 4日 邪馬台国(やまたいこく)と卑弥呼2.

2000漢字程度の魏志倭人伝によると、倭の国には3世紀頃、邪馬台国という強国があり、30ほどの小国を従えた女王卑弥呼は神に仕え、(まじな)いによって政治を行う不思議な力を持つとある。

この記事を書いた人は日本に来ていない。それより40年前に日本を訪れた使者が聞いた事を歴史家がそのまま記載したと思われる。その使者にしても福岡県にとどまり、邪馬台国も訪れていない。日本も旅していない。故にこれらの事は正確とはいえない。九州説、大和説とあるが邪馬台国の所在は確認されていない。

 5日 巨大古墳と大和朝廷 古代国家は、どこでも王の巨大な墳墓を残している。日本列島でも3世紀以降、最初は近畿地方や瀬戸内海沿岸に、そして広い地域に、まるで小山のように盛り上がった方形(ほうけい)(四角のこと)と円形を組み合わせた古墳が数多く作 られた、前方(ぜんぽう)後円墳(こうえんふん)と言う。
奈良県桜井市の箸墓古墳は
3世紀後半、古墳としては最古の前方後円墳であり、日本書紀には「日中は人が作り、夜は神が作った」と記載されている。大和朝廷の成立を示す重要な根拠を示すもの。
 6日 古墳と埋蔵物 古墳は作られた当初は、山の表面に石が敷き詰められ、周りや頂上には人物・家屋・馬などを模った埴輪や円筒形の埴輪が並べられて 威容を誇っていたといわれる。丸い部分の中に石室があり、棺や鏡、玉、剣、馬具、農具が納められていた。葬られていたのは主として地域の支配者の豪族である。
 7日 世界最大古墳. 大和とか河内には、一際巨大な古墳が多い。この地域の豪族たちが連合して統一権力を立ち上げた為と考えられ、これを大和朝廷という。 地方豪族の上に立つ大王(おおきみ)の古墳はひときわ巨大、わけても日本最初の「大仙古墳(仁徳天皇陵)の底辺部はエジプトでも最大のクフ王のピラミッドや、秦の始皇帝の墳墓の底辺部よりも大きかった。古墳は3世紀が造営が始まり7世紀までに作られた。
.神武(じんむ)天皇(てんのう)の東征伝説
 8日 古事記・日本書紀から 天照(あまてらす)大神(おおみかみ)の直系である神日本(かむやまと)磐余(いわれ)彦尊(びこのみこと)(後に神武天皇)45歳のとき、日向(ひゅうが)(宮崎県)の高千穂からまつりごとの舞台を東方に移す決心をし、水軍を率いて瀬戸内海を東へ進んだ。大阪湾から上陸を志すが、長髄彦(ながすねひこ)の強い抵抗を受け、一人の兄を流れ矢で失う。二人の兄は、海上で暴風雨をしずめるための犠牲となった。苦難の末、軍勢は熊野(和歌山県)に上陸し、大和を目指す。けわしい山道を踏 み迷うさなか、天照大神のお告げがあり、頭の大きなカラスの八咫烏(やたがらす)が道案内をしてくれる。神日本(かむやまと)磐余(いわれ)彦尊(びこのみこと)は、抵抗する各地の豪族をうつほろぼし、服従させて目的地に迫る。再び長髄彦(ながすねひこ)が烈しく進路を阻む。冷雨が降り、戦いが困難を極めた丁度その時、どこからか金色に輝く一羽のトビが飛んで来て、(みこと)の弓にとまった。トビは稲光(いなびかり)のように光って、敵軍の目をくらました。こうして尊は大和の国を平定して畝傍山の東南にある橿原の地で初代天皇の位に()いた。
 9日 朝鮮半島の動向と日本1. 古代の朝鮮半島や日本列島は中国大陸の政治の動き一つで大きく左右された。220年漢が滅亡し、589年隋が中国大陸を統一する迄の約370年間、小国が並立する状態で朝鮮半島に及ぼす政治的影響力が幾らか弱ま った。急速に強大になった高句麗(こうくり)313年、中国領土だった楽浪郡(らくろうぐん)(ピョンヤン付近)を攻め滅ぼした。東アジア諸民族の秩序に緩みが生じ、大和朝廷もこれに対応して半島へ活発な動きを示した。
10日 朝鮮半島の動向と日本2. 高句麗は半島南部の百済(くだら)をや新羅(しらぎ)を圧迫していた。百済は大和朝廷に救援を仰いだ。日本列島の人々も 元々鉄資源を求めて朝鮮半島南部と交流があった。そこで4世紀後半、大和朝廷は海を渡り朝鮮に出兵した。南部の任那(みまな)(加羅(から))の地に拠点を築いた。
11日 朝鮮半島の動向と日本3. 高句麗は南下政策をとる、大和の軍勢は百済、新羅を助け激しい戦いをした。414年に建てられた高句麗の広開土王(こうかいどおう)(好太王(こうたいおう))の碑文に、4世紀末から 5世紀の出来事としてこのことが記載されている。
高句麗は百済の首都
漢城(かんじょう)(ソウル)を攻め落とし半島南部を席捲した。然し、百済と任那を地盤とした日本軍の抵抗により征服は果たせなかった。
12日

朝貢

5世紀中頃、中国では南に(そう)、北に北魏(ほくぎ)が建国し南北朝時代を迎えた。
東アジアでは、強国へ周辺国が貢物を捧げて
(朝貢)臣下の国になることを誓う外交が行われていた。大和朝廷と百済は中国の南朝に朝貢した。
5世紀中10回近く「倭の五王」が宋に使者を送った。他方、高句麗は北魏に朝貢し同盟関係にあった。大和朝廷と百済が敢えて宋の朝貢国になったのは、宋の力を借りて高句麗を牽制するためであった。ただ海を隔てており不利な同盟関係であり次第に不振となり行き詰まった。
13日 技術の伝来 中国は紀元前の段階で既に、文字、哲学、法、官僚組織、高度な宗教を十分身につけて古代帝國時代を経過していた先進国であった。文化は高きから低きに流れる。朝鮮半島を通じて中国文化は日本に流入した。百済との交流も頻繁になり人の往来も増えた。 5世紀以降、大陸や半島から技術を持つ人々が一族や集団で日本に移り住んだ。土木、金属加工、高級な絹織物、高温で焼いた須恵器作りなどを伝えた。鉄の農具や武器も大量に作られるようになる。漢字も定着、儒教も伝来、外交文書も作らせた、これら帰化人(渡来人)と呼ばれ主に近畿地方に住まわせ政権に仕えさせた。
14日

.氏姓(しせい)制度

大和朝廷の頂点の人は大王(おおきみ)(王を敬う呼び方)と呼ばれ、まだ当時は天皇の呼び名はなかった。地方の豪族は同じ血縁を中心とした氏という集団を作った。 大王から(おみ)(むらじ)と云う(かばね)を与えられ、(うじ)ごとに決まった仕事を持った。これを氏姓制度という。有能な帰化人はこうした氏姓制度の中に組み入れられた。
15日 閑話休題

獲加(わか)多支鹵大王(たけるだいおう)

埼玉県、稲荷山古墳から出土した「鉄剣」、銘に獲加(わか)多支鹵大王(たけるだいおう)とある。倭の五王の「武」で雄略天皇に当たると考えられている。
愚生の新聞寄稿    中華・小中華
16日 中華秩序と日本 中華秩序とは、近代以前の中国中心の国際秩序。中国皇帝は周辺諸国の王に称号などを授与し臣下とする。臣下とされた国は定期的に貢物を送り(朝貢)、臣従の礼をする。 日本は古代に於いては一時的に朝貢などをした時期はあるが、朝鮮やベトナムなどと比較して独立した立場を今日まで貫いてきた歴史的事実がある。
17日

6世紀の大和朝廷

6世紀には朝鮮半島の政治情勢が変化した。武威を誇っていた高句麗の衰退である。支援国の北魏も凋落へ向かう。対して新羅と百済の国力が増大。為に、任那(みまな)日本府は両国から圧迫されだした。高句麗全盛時代には考えられない事態であった。任那日 本府は新羅から攻略され、百済からは領土の一部の割譲を求められた。百済と大和朝廷の連携は続いた。新羅・高句麗が連合して百済を脅かした時代である。百済の聖明(せいめい)王は仏像と経典を日本に献上した。百済からは助けを求める使者が列島に相次いでやってきた。然し、562年、任那は滅んで新羅領となった。
18日 朝鮮半島の日本接近 570年以降となると、東アジア一帯に新事態が起きた。高句麗が突然、大和朝廷に接近、引き続き新羅・百済が日本に朝貢したのである。三国が互いに牽制しあった結果であった。 その後、589年に中国大陸で「隋」が統一を果たした。これが新たな脅威となり三国はより日本に接近した。任那から撤退し、半島政策に失敗した大和朝廷だが、再び自信を回復したと考えられる。古代から国益を賭した国家間の政治が生々しくわかる。
19日 釈迦と仏教 仏教は、この頃、インドの釈迦(紀元前65世紀)が説いた人生に対する教えである。釈迦はある日、老人が倒れているのを見て、人間が年とつたり、病気になったり、苦しんだりすること を知った。
また人間が利己的な性格から逃れられないことを悟った。家族も財産も捨てて出家した釈迦は、僅かなもので満足し、他人を助け、愛することが大事であると説いた。
20日 年代測定法1.

遺跡などから出土した品の年代の調査。

1.発掘場所の地層の上下で凡その年代が判明。

2.放射性炭素は植物やそれを食べた動物に含まれていて、生物が死ぬと、その放射性炭素が規則正しく減少して行き、5730年で半分の量になるという性質がある。遺物に僅かでも生物の遺体が混じっていると、の炭素半減性質利用で年代の測定が可能である。
21日 年代測定法2. 遺物と一緒に出土した木切れの年輪の測定による有力な方法もある。 木の年輪は、気候により幅が広くまた狭くなるので、その変化のパターンから年代が割り出せる。
22日

国内統一の勇者

それは日本(やまと)武尊(たけるのみこと)弟橘媛(おとたちばなひめ)である。大和朝廷による国内統一が進んだ4世紀前半、景行天皇(12)の皇子に日本武尊という英雄がいたことを古典は伝えている。この頃、九州の反乱があり、16歳の第二皇子の小碓(おうすの)(もこと)が征伐の為派遣された。皇子はクマソにて、少女の姿になり反乱の指導者クマソタケルの接近は見事に倒した。

タケルは皇子の勇敢さを讃え「これからは、あなたがヤマトタケルと名乗られよ」と云い息絶えた。日本武尊とは、日本の勇猛な人の意。

武尊は九州から大和に帰るとまず伊勢神宮に参拝、そこで天叢雲剣(あまのむらくものつるぎ)を授かる。これは神話で、スサノオの命が八岐(やまた)大蛇(おろち)を退治した時に尾から現れたとの伝があるもの。

23日 日本武尊 (みこと)が相模国(神奈川県)に至る、賊に欺かれて野原の中で野に火をつけられて危うく焼き殺されようとした。その時も剣を出して草を薙ぎ払い、逆に火をつけて賊を滅ぼした。これにより、この剣を「草薙(くさなぎ)(つるぎ)」と呼び熱田神宮に存在する。 この草薙(くさなぎ)(つるぎ)八咫(やた)(かがみ)八坂瓊(やさかに)曲玉(まがたま)、これはやがて「三種(さんしゅ)神器(じんぎ)」と呼ばれ、歴代天皇に受け継がれる皇位の象徴となった。
世界の元首にかかるものがなく正統性に難渋する国が多い、中国がまさに然り。
24日 弟橘媛(おとたちばなひめ) 日本武尊は走水海(はしりみずのうみ)(浦賀水道)を渡る時、波が荒れて船が進まない。この時、(きさき)の弟橘媛は「自分が身代わりとなって海に入りましょう。あなた様は、どうか大切な任務を果たして下さい」と海に投身した。すると、みるみる波は静まり穏やかとなり、尊は危難から救われた。 その時の后の歌「さねさし 相武(さがむ)の小野に 燃ゆる火の 火中(ほなか)に立ちて 問ひし君はも」(相模国の、あの野原の燃え盛る火の中で、私の身を案じてよびかけた下さったあなた様だったことですよ。)
この後、東方の乱れをしずめて大和へ帰る途中、
碓日(うすい)(さか)(群馬県碓氷峠)で弟橘媛を偲んで「吾妻はや(ああ、わが妻よ)」と嘆かれた。これにより関東を「あずま()の国」と呼ぶようになった。
25日 伊吹山と白鳥 日本武尊は、剣を持たないでも伊吹山(滋賀県岐阜県境)に登り山の神のたたりに遭い、遂に伊勢の能褒野(のぼの)(三重県鈴鹿市)で病気が重くなり、亡くなられた。 人々はその場所に(みささぎ)()を作り尊を丁寧に葬った。すると尊は白鳥になってそこから飛び立った。その後、白鳥が降り立った場所にも陵が作られ現在でも尊の陵は三つ残されている。
26日 聖徳太子 日本の国号は当時はまだ生まれていない。6世紀末には東アジア情勢の急変で日本人は国家意識を徐々に高めて行くが国家機構の整備もされていない。法も官僚制度も、政治哲学も、高度な宗教も全ては大陸の文明に仰がなくてはならなかった。だが、新興の隋に朝貢し服従する外交はしたくない。倭の五王が朝貢していた頃は、強大な高句麗に対 抗する為中国王朝と結ぶ必要があったが、今や高句麗は脅威ではなかった。この時期を巧みに掴んだのが聖徳太子である。太子は、女帝である推古天皇の摂政となり天皇に代わり政治を行った。そしてそれまでの朝鮮外交から大陸外交への方針転換を試みた。朝鮮を経由せずに直接大陸の文明を取り入れる為、小野(おのの)妹子(いもこ)を代表とした遣隋使(けんずいし)を派遣した。
27日 聖徳太子2. 日本が大陸文明に吸収されて、日本固有の文化を失う道は避けたかった。そこで太子は隋宛の国書に「日出づる処の天子、書を日没する処の天子に致す。恙無きや」(日が昇る国の天子が、日の沈む国の天子に宛てて書簡を送る。ご無事でお過ごしでしょうか。)と書かれた。遣隋使は隋から見 れば朝貢使だが、太子は国書の文面で対等の立場を強調することで、隋には決して服属はしないという決意表明をしたのである。隋の皇帝は激怒したが高句麗との抗争中なので忍耐したのである。わが国は、中国から謙虚に文明を学びはするが、決して服属はしない、これがその後もずっと変わらない、古代日本の基本姿勢であり事後今日まで姿勢を堅持してきた。
28日 聖徳太子の政治1. 然し、わが国は学ぶ時はどこまでも徹底的に学ぶ。仏教や儒教の教えを取り入れた新しい政治の理想を掲げ、それに従い国内政治の仕組みを整備しようとした。 仏教が入った6世紀前半、豪族たちはこれを外国の宗教であると排斥する勢力と、積極的に受け入れようとする勢力との二派に分かれ政治抗争を引き起こした。
29日 聖徳太子の政治2. 排斥派の物部(もののべ)()が討たれ、受け入れ派の蘇我氏が勝ち政治の主導権を把握した。蘇我氏の周辺には仏教に帰依する帰化人たちが集まっていた。蘇我氏は皇室とも 縁戚関係を持ち次第に勢力を強めていた。聖徳太子は蘇我馬子と強力しながら政治を進めた。仏教信仰を基本に置く政治である。太子は生まれた家柄ではなく、優れた仕事をした人を評価する「冠位十二階」を定めて役人の冠の色で区別した。
30日 聖徳太子の政治3.

これは、豪族たちを抑え天皇中心の体制作りの為であった。儒教の教えを入れたこの冠位は、豪族の生まれや家柄を尊重したそれまでの氏姓制度の変更を求めるもので革新的であった。

太子は同様の精神で「十七条の憲法」を定め、天皇と役人と民衆の役割の違いを強調した。夫々が分を守り「和」の精神でことに当るべき心得を説いた。この頃は7世紀で、飛鳥地方に政治の中心があり飛鳥時代と呼ぶ。
31日 十七条の憲法(初めの三条の一部)

.一に(いわ)く、和をもって(たつとし)となし、さかふる(さからいそむく)ことなきを(むね)とせよ。

二に曰く、あつく三宝(さんぼう)を敬へ。三宝とは仏・法(仏教の教え)・僧なり。
三に曰く、(みことのり)(天皇の命令)をうけたまはりては必ずつつしめ。