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    心・精神・魂・霊魂その2

生霊

前回は死者の霊魂について述べた。私は登山が好きで各地の山々を登る。時に単独行もする。暗い針葉樹林など歩いている時には動物より一人の人間に遭遇した時のほうが不気味さを覚える時もある。動物は警戒心が強く近づかないし攻撃もしないし喧嘩も人間のように命までとらない。人間は何を考えているのか分からない。心の中の思いこみは良くても悪くても大きい力を発揮する。良いことなら思いこみのエネルギーが強い程成功率が高い。悪い思いこみはエネルギーのうねりを起こす。言われた言葉に傷ついて最近も上司を殺したとの報道があった。言われた言葉が多年に亘り根を張り心の中にしっかりした核を育てる、人間の器量とか気質により千差万別ではあろうが。思いこみが恨みとなり長く心に沈殿し、いつの日か必ず現れる。これが生霊、ライブスピリットではあるまいか。生霊のほうが実害をもたらす。死者の霊魂は精神的関係の強い生存者に精神的実体として残る。先祖の命の後継者である子孫に被害を与えるなど仏の道からみて考えられない。考えてみれば有史以来、人間のこの思いこみと恨みで闘争やら殺戮を繰り返し現在でも地上に絶えることはなさそうだ。

心の陶冶

心のコロコロしない人もあらうが心は元来そういう性質を備えているらしい。その心だが他人には本当の処は中々見えないようである。態度、表情、言葉、行動、等々のいわばボディランゲージを総合的に時間をかけて観察し洞察しなくては真の心の実像は把握出来ない事もある。これは人間のみの特徴で動物にはみられない。動物は自己に忠実に生きているからであらうか。いつもいつも自分の心を見つめて一定の場所で動かないようにするのが修養と言うものかもしれない。ちょっとした刺激でコロコロ動く心、心が満足しない時には炎のように熱くもなる。心の炎立ちである。そうなると手がつけられない。相手の悪い事ばかりの思いが心に充満する。そうなってしまうと悪の思いがどんどん肥大して限りない。善の入る隙がない。心全体にガンが出来てしまう。人により違いがあろうが、やがて炎も燃え尽きる。ふと相手の美点に気づき反省を始めると今度は善の炎が燃え上がる。人間の心は不思議な生き物のようだ。心は孫悟空のように天空を自在にかけめぐる。心の中に地球はおろか宇宙さえ描き俯瞰すらできる。まさに一切は心より転ずる。

死霊と心

この世に明かりのない古代を想像してみる。夜は墨汁を流したようで月明かりが無ければ文字通り一寸先も見えまい。ススキの穂が揺れたり草木の風になびく音や影に古人は怯えたのであろう。科学の無い時代の天変地異、死者への畏怖は現代人には想像を絶するものであったろう。特に仕掛けをして殺した人達への恐怖は、恨みを抱いて死した人達への恐怖は夜には一段と凄みを増したであろろう。考えてみれば、あの世のえんま様や地獄という中世の尻尾はたかが50年前まで我々の中に残っていたのだ。

自分の心の影、良心の痛みに怯えているのだと思うが死霊として祟りを恐れていたのだ。それに比べると現代人は悪くなった。無惨な殺され方をされた人達の話は枚挙にいとまが無いが死霊なるものが殺人者に仇を打ったと言う話はついぞ聞かない。然し乍ら、神即ち天地自然の理法とか法則は人間の心も支配している。生きている限り時間をかけて必ず報復して行くであろう事は確信できる。

このドロドロした人間の心の炎に動かされて嫌な社会現象が益々増えている。人間の性が織りなすこの現実、せめて自分の心だけでも良く耕して行こう、良い種を心田に播いて行こう、良いことのみ思って暮らして行こうと切実に思う昨今である。さすればこの世で神を見ることができるのであろうか。