心は立体?心は動体

心について色々と考えることが多い。加齢と共にこの世は、或いは肉体は宇宙の一つの生命であり他の動植物と同様な存在だと思う。牛とか馬とかの目を見る時に彼らも心があるように思えてならない。牛は家畜で洋の東西に拘わらず自宅に近い家族のような場所で飼育されてきた。日本国は明治前後から牛肉の味を知ったといわれる。欧米人は有史以来食用にしていたのであろう。その牛と鯨とどお違うのか。捕鯨の禁止を言う欧米人に主張してやりたい、捕鯨が駄目で牛がいい理由を教えて欲しいと。

最初から主題を外れてしまった。私は心について最近このように考えている。英語のスピリッツは精神、心、魂、霊魂と訳される。私は心を目に見えない一つの生きもの、動体と考える事により理解が進むと究極的な結論に達した。その心動体には背骨がある、心の背骨が精神である。人間でも背骨がないと立っていられない、精神がないと人間としての働きがなくなる。精神は心の心棒であり人間の心棒となる。背筋をピンとすると精神も確りとするではないか。

次に、その心の動体には根底に矢張り芯となる心を持つのだ。背骨を精神とすると魂は骨髄に相当するのではないか。心動体は一つの見えない浮遊体で人間の中、或いは動物の中に確実に存在する。肉体が生存している時その心動体の心は通常の状態である。その心動体の心には更にその真底に魂があるのだ。その魂が人間存在の人格的な中心部分なのである。この心の魂は心魂とも言うが、肉体が滅びると心動体も滅びるが魂となって現世に残るのである。これが霊魂であろう。生きている時の心の底に魂があり肉体の滅亡と共に霊魂となるのだ。この魂は心動体の心の根底にある。霊魂はこの世で魂が通じ合った比率で生存者に残る。無関係の人には霊魂は通じない。全く知らない人でも書物とか志が通じた他人には感じられる。心魂は霊魂となるが人格的なものである。次に、心動体の持つ理想を志といい心動体の羅針盤となり人間を導いて行くのだ。精神は常に向上を志向するものだ。これは信念と言ってもいい。少し饒舌となったがこれが私の心ら関しての長年の結論である。
トップへ