. . 聖書・「神のみことば」は、真理の尽きない泉です。深く掘れば掘るほど、豊かな甘い水を湧き出します。
このページは、フィリップの「井戸掘り日記」」と名付けました。
「アブラハムの生涯」 からの礼拝説教 : 第16講
■ 今日の「井戸掘り」

 「息子 イサクのために妻を迎えなさい」           創世記24:1〜21 

  ■ 井戸を掘りましょう:

   先週の日曜日、このところでお会いしてより一週間が過ぎました。先日は まだまだ暑さが続くように思えましたが、今朝は秋が大急ぎでやって来た感 があります。カリブ海域ではまた、ハリケ−ンの季節が巡って来たようで、 昨年、ジャマイカの教会はギルバ−トのため大きな被害を受けましたが、今 年カリブ海を通過してアメリカの南カロライナに上陸したハリケ−ン・ヒュ −ゴ−の影響はどうだったのでしょうか。南カロライナでは大きな被害が出 たと聞いています。

   私たちの教会では台風17号、でしたでしょうか、の強風の余波を受けて、 屋根の十字架が先日倒れてしまいました。幸い既に手配済みでしたので、先 週の月曜日、十字架の修築が早速完了しました。祈祷会の折り、新しい十字 十字架は背が高くスリムで現代っ子風だと言いましたら、子どもの一人が、 「それでは弱くて倒れやすいね」と応じてきました。今度の十字架はスリム でも丈夫なものです。現代っ子もそう卑下したものでもないと思います。  さて、私たちは創世記11章、12章に始まって、アブラハムの生涯を学 びつつあります。アブラハムは新約聖書では「信仰の父」と呼ばれ、神に信 頼して、その人生を生き、神から豊かな祝福を受けた人物です。今朝私たち は24章に差しかかっている訳で、アブラハムの生涯の締め括りもそろそろ 近づいて来ました。その生涯を振り返って見ますと、各章の題を次のように 整理できるでしょう。

    ・11章−アブラハムの家族、または、親族
    ・12章−アブラハムの召命と出立<
    ・13章−甥ロトとの別れ
    ・14章−ロトの救出
    ・15章−アブラハムへの約束
    ・16章−妻サラの提案
    ・17章−アブラハムの割礼
    ・18章−サラの笑い
    ・19章−ロトの危機
    ・20章−アブラハムの偽り
    ・21章−イサクの誕生
    ・22章−アブラハムの試練
    ・23章−サラの死
    ・24章−イサクの結婚
    ・25章−アブラハムの永遠の旅立ち

   アブラハムという人物を取り巻いて、妻サラ、甥ロト、息子イサク、その 他ハガル、イシマエル、エリエゼルと様々な人物が登場しています。こうし てそれぞれの章に名前をつけ整理してみますと、私たちは各章に何が書かれ ていたか、その内容を思い起すことができますでしょうか。また、その内容 とともに、それらの記述の現代的な教訓、私たちに何を語っているのか、学 んだことを思い起しますでしょうか。

   さて、今朝読みました24章の章題は「イサクの結婚」です。非常に長い 章で、67節あります。長いということは、この章に書かれている「イサク の結婚」ということがアブラハムの生涯にとって大切な意味を持っていたこ とを示しています。

   私たちが作文や、日記、報告書を書く時、大切なことにより多くの字数、 枚数を当てるのが普通です。聖書も同様で、その記述の長さによって、そこ に書かれていることの重要性を物語っています。長いのでこの章を整理して みますと、

    ・1〜19節−イサクの結婚の背景
    ・10〜27節−結婚への探求と実現
    ・28〜61節−結婚に向かっての手順、交渉
    ・62〜67節−イサクの結婚
となりましょう。今朝はこの冒頭の部分のみを読みました。

T イサクの結婚に関するアブラハムの願い

   先週私たちは、アブラハムにとって長い人生の伴侶者であったサラの死に 目を留めました。アブラハムは人生で最大の危機に直面したのです。彼は、 しかし、その危機を信仰によって乗り切りました。

   「信仰によって」というとある方々は、非人間的になることだと考えます。 親しい者の死に際して悲しみも痛みも感じないことが、信仰的だと思い違い をします。それでいて、嫉みやそねみ、恨みや憎しみからキリストが解放し てくださったというと、こうした感情は人間にとって自然な感情だから、そ んな筈はない、といいます。

   聖書は嫉みやそねみ、憎しみや恨みの感情は人間本来の性質ではなく、人 間のこころを冒している細菌だと言っています。最近コレラが流行って、ア チラコチラに患者が出ているようですが、コレラにかかると下痢症状を起こ します。同じように、私たちは罪という菌に冒されると、私たち人間にとっ て美しいもの、愛であるとか、思遣の気持ち、同情の念などが失われてしま います。

   最近東京で、下宿していた娘さんが自分の部屋で襲われ殺されるという事 件が起こりました。10分間という可成長い間、助けを求める声、悲鳴を上 げていたとのことですが、誰ひとり駆けつけず、110番に電話もしません でした。都会病のひとつ、無関心という菌にやられて、周囲の人々は愛、思 い遣り、他の人への関心を失っていたのです。

   信仰はこうした人としての大切なものを回復する恵みを与えます。アブラ ハムは信仰者でした。それで彼は妻サラを天に送った時、泣いたのです。彼 にとって長年の伴侶者の死は痛手でした、悲しみをもたらしました。涙を止 めることができなかったのです。

   アブラハムは墓地を買い求めて、サラを葬りました。日本の教会にとって 天に帰られた方々をどのように覚えるかは大切な問題です。クリスチャンは 仏壇を持たない、位牌を拝まないということで、亡くなった方々を蔑ろにし ていると、よく批判されます。しかし、クリスチャンは型こそ異なっても、 亡くなった方々を思う心は他の宗教の人々に勝るとも劣ることはありません。 他の宗教の人々のように、私たちの何かによって、既に世にない方々が成仏 するとか、さ迷っているたましいが天国に行くとか、は考えません。死とは もっと厳粛なもので、私たちの永遠が決定する瞬間です。ゆえに、私たちは 生きている今、救いのメッセ−ジに対してどうするかを決めることが大切で す。

   アブラハムはサラを葬りました。そして、サラの死から更に数年が過ぎた のです。これが24章の時期でした。イサクはもう四〇才くらいになってい ました。年月の経過は早いものです。この時、アブラハムの心に懸かってい たことはイサクの結婚問題でした。イサクは180才まで生きましたから、 40才というのは、20才、もう少し年を取っていたにしても30才、とい ったところでしょうか。ユダヤ人の間では30が一人前と認められる年でし た。

   24章1節には、神の祝福の事実が述べられています。その一例として、 イサクの結婚のことを学ばなければならないでしょう。神の祝福は凡てに潤 いとスム−スさをもたらします。神の祝福が伴いませんと、うまくゆくこと でも駄目になることがあります。神の祝福があると困難に見えることも、ス ム−スに、また、順調にゆくものです。

   第3節、イサクの結婚に関するアブラハムの意向が記されています。「カ ナン人の娘から妻をめとってはならない」。何故いけないのかは、カナン人 の宗教がどのようなものかを知らないと十分判らないことでしょう。19章 のソドムとゴモラの滅亡の記事を思い起すと、大体想像できることでしょう。 バアル、アシュタロテなどのカナン人の信仰は農業の神に対する信仰でした。 生産の神、生殖の神への信仰です。性的な不道徳とは切り離せない宗教だっ たのです。宗教の名において不道徳が行われていました。また、隣国モアブ では人身御供が頻繁になされていました。異教の神モレクの恩顧を受けるた め、モアブ人たちは自分の赤子を祭壇に捧げるということをしていたのです。 このようなカナン人の娘をイサクの妻として迎えることは、そういう宗教的 な背景、理解を持ち、そういう宗教的な慣習の中に育った人を迎えることに なるのです。アブラハムの後継ぎとして、真の神の証人となるべきイサクに とっては願わしくないことでした。

   第5節、イサクの妻探しを依頼されたアブラハムのしもべは、妻としたい 娘が誰もついて来ない場合、イサクを連れてハランにいってよいか、との質 問を投げ掛けます。アブラハムはそれに対して「NO」と言いました。カナ ンの地はアブラハムとその子孫にとって約束の地、嗣業の地だから、という のです。アブラハムの解答は、使命の道を離れてまでそのことを考えなくて もよい、というものでした。

   IGMには独身の婦人の先生方が多くおられて、専念して伝道、教会建設 に当たっておられます。こうした先生方は結婚ということを考えなかったの でしょうか。そうは思いません。ある時期には機会があれば、ふさわしい人 物がいれば、、、と考えられたことと思います。しかし、独身で今日まで来 ておられます。伝道者という使命の道を離れてまで、家庭生活に入る必要は ないと決断されたからです。

   皆さんは伝道者とは違います。しかし、自分の人生の目的は何かを確りと 捉えましょう。結婚の問題を聖書から考える時、結婚、即ち、幸せと考える ことは誤りです。余りにも短絡的です。確かに一般的に言って、結婚生活に 入って行くことは通常のことであり、望まれることであり、祝福されたこと です。しかし、結婚さえすれば、幸福になれると考えているとすれば、それ は甘い考えです。不幸な結婚が幾らでもあるのです。結婚は私たちにとって 凡てではなく、人生の一部なのです。大切な一部なのです。その人生の全体 像の中で、結婚の問題を考えてください。皆さんの人生の目的をしっかり捉 えて、その中でその一部として、結婚問題を考えてくださるようにお願いし ます。

U イサクの結婚におけるしもべの役割

   今朝は聖餐式をこれから守りますので、この部分を詳しく学んでいる時間 はありません。この章に書かれている美しい物語を、後で聖書から読んでく ださい。第三の要点に進みましょう。

V イサクの結婚に学ぶ私たちの結婚に関する教訓

A.第一のレッスンは、しっかりとした原則をもってこのことに当たること、 という教訓です。

   誰でもある年令になれば結婚するのだから、といった安易な時の流れに只 流されて、、、といったアプロ−チ、考え方、対応は正しくありません。結 婚問題を考えるに際して、しっかりとした原則を持っていることです。願わ くは、皆さんが心に抱いているその原則がキチンと神のおことばに則ったも のでありますように。

B.第二に、自分の人生の目的、神が与えておられる使命をしっかりと把握 して、この問題を考えましょう。

   勿論、皆さんが伝道者になるとか、宣教師になることを意味しません。あ る人にとっては、そうでしょう。しかし、大部分の方にとってはそうではな いのです。

   伝道者になるとか、そういったケ−スでない場合でも、結婚そのものは人 生の凡てではない、とのことを心に留めておきましょう。神が与えてくださ った人生目的からはずれるような結婚は避けましょう。神が与えてくださっ た人生の全体像の中で、結婚問題を考えましょう。

C.祈りと待望の必要が、第三に学ぶ教訓です。信仰を持ってことに当たり ましょう。

   結婚する、しない、また、するに際して、誰と、、といったことは大切 な決断です。祈りなしに当たってはなりません。神の導き、助け、干渉を真 剣に祈り求めてください。

   アブラハムのしもべの祈り深さ、待ち望む姿は、主人の祈り、待望の反映 です(12、21節)。アブラハムが直面した状況は周囲のカナン人の中に はふさわしい人物がいない、という困難な状況でした。しかし、アブラハム は祈りと信仰によって、この問題に活路を開いたのです。

   最後に、今朝が聖餐式を守る朝であることを覚えて、第58節に目を留め て、今朝の礼拝を締め括りましょう。58節には「はい、参ります」という リベカの返答が記されています。新約聖書によると、結婚はキリストと教会 の関係を示すものとされています。キリストと個々のクリスチャンの関係も 表わしているのです。キリストを信じるとは、キリストが、そのしもべを通 して、私たちに花嫁になるよう求婚しておられるのに対して、「はい」とお 答えすることです。

   礼の宮さまは、紀子さんに横断歩道で待っている時にプロポ−ズされた、 と報じられていました。紀子さんはそのプロポ−ズに「はい」といって、そ れを受けられたのです。

   私たちは私たちの人生のどこかで、キリストの申し出にたいして、「ハイ」 とお答えしたことがあったでしょうか。もし未だなかったら、今朝をその機 会としてくださいますように。私たちが一旦「はい」とお答えし、プロポ−ズを 受け入れたならば、いつまでも真実でありたいものです。キリストは私たちを 永遠の愛をもって愛していてくださいます。私たちも変わらない愛をもって キリストに従っていますでしょうか。キリストへの初々しい愛を失ってはいないか、 反省しながら今朝の聖餐のテ−ブルにつかせて頂きましょう(1989/09/24、礼拝)。

■ キリスト、ペテロの足を洗う

高知県・越知町の大樽の滝   ☆印をクリックしてください


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