. . 聖書・「神のみことば」は、真理の尽きない泉です。深く掘れば掘るほど、豊かな甘い水を湧き出します。
このページは、フィリップの「井戸掘り日記」」と名付けました。
「アブラハムの生涯」 からの礼拝説教 : 第17講
■ 今日の「井戸掘り」

 「その主が成功させてくださる」           創世記24:28〜51 

  ■ 井戸を掘りましょう:

   今朝から月一回ですが、こちらの礼拝とは別に中高生の礼拝が始まりまし た。「こちらの礼拝」というのは奇妙な表現だと考えなさるでしょう。「お となの礼拝」と言おうとしたのですが、考えてみますと、礼拝はおとなだけ のものではありません。今朝の礼拝には、90才を越えるご年配の方から、 生後4、5か月の赤ちゃんまでが出席しておられます。礼拝はおとなのもの、 ではなくて、凡ての人のものです。それで、「こちらの礼拝」というわけで す。

   中高生の礼拝では、聖書の短い箇所を開いて思い巡らすようにしました。 しかし、こちらの礼拝の今朝のテキストは随分長い聖書箇所です。創世記二24 章は大変に長い章で、先週に続いて今週もこの同じ章から学びたいと思っ ています。さて、先週、章が余り長いので、文節毎ではありませんでしたが、 章を分解してみました。

   1節から9節までが、「イサクの結婚とその背景」です。長年サラと人生 を共にしてきたアブラハムは、その愛する伴侶者を天に送り、何とも言えな い淋しの中にありました。アブラハムの生涯で只一回、彼が泣いたと書かれ ています。かれ自身も年老いてゆく中で、彼の最大の気掛かりは息子イサク の結婚のことだったのです。年老いたアブラハムはしもべ、多分エリエゼル でしょう、を呼んで、ことをこの忠実なしもべに託しました。淫らな宗教に 毒されている周囲のカナン人の中からイサクの伴侶者を選んではならない、 むしろ遠くても縁続きのラバンの家から、というのです。

   次の10節から27節までは、「イサクのための花嫁の探求と発見」です。  テレビのコマ−シャルに花婿と花嫁になるふたりは、小指が赤い糸で結ば れている、というのがありました。この沢山の人々の中で、ふたりがめあわ されるというのは、誠に不思議です。神の摂理の御手を頷かないわけにはゆ きません。私たちの人生のために神の御計画があるのです。  しかし、そこに人間的な要素が皆無なのではありません。事を託されたア ブラハムの忠実なしもべなくしては、彼の労と祈りがなくては、イサクとリ ベカの結婚は成り立たなかったのです。12節に、このしもべの必死の祈り をみます。そして、その後に、彼とリベカとの出会いがあったのです。  この章の第三の分節は、28節から61節の長い部分です。ここには「イ サクのための交渉」が記されています。

   そして第四の分節、62節から67節が「イサクの結婚」です。

   先週はこの章の初めの部分にのみ、心を向けましたが、多くの方々は、こ うした聖書の記事に接しますと、

    ・実際はそう旨くゆくものではないとか、
    ・アレは、聖書の美しい物語りにしか過ない、<
    ・そういうことが実際あったかもしれないが、それは昔の話し、羊や馬の 出てくる平和なのんびりした時代のことで、今の時代にはそうはゆかない、 といった感想をこころに抱かれます。

   しかし、今朝もう一度、「聖書が私たちの生活の規範」として書き記され ているということを確認したいものです。「規範」というのは、基準的なガ イド・ラインを提供するものという事です。聖書は美しい夢物語、現実とは かけ離れた物語の世界、を描いているのではなく、聖書はもっと現実的なも のです。

   神学院で今建築工事が進められていますが、工事関係者たちは、手に設計 図、青写真をもって、事々にそれに従って工事を進めています。クリスチャ ンにとって、聖書は人生の設計図です。そのことを先ずしっかり頷きましょ う。

T 今朝、第一に「選ばれたリベカの特長」を学びましょう。

A.第16節をみますと、リベカの「純潔」が言及されています。「非常に 美しく、処女で、、、」あったのです。

   私たちは「美しさ」を考える時、直ぐ外面的な事としてそれを理解します。 目鼻立ちが整っているとか、体のプロポ−ションがどうであるとか。それも 意味のない事だとは思いません。しかし、聖書で言う「美しさ」とは、内的 な輝き、内的な美しさで、それは純潔とは双子の姉妹なのです。美しさのあ るところには純潔があります。純潔のあるところには、美しさがあるのです。 この二者は不可分です。

   私たちの生きているこの時代は、倫理とか、道徳を考えるにあたって、時 代の通念が道徳の土台となるようにいいます。それぞれの時代に、皆が正し いと言えば、それは正しく、誤っていると言えば、誤っているというのです。 時代により皆が賛成、合意することが変わって当然だと言われます。状況倫 理の時代なのです。絶対的と呼ばれる基準が喪失し、凡てが相対化した時代 です。多数決でことが決まる時代です。<

    しかし、道徳とはそのようなものでしょうか。
    自然界には自然の法則があります。何処かで最近、桜が二分咲になった、 というニュ−スを聞きました。こうした桜を「狂い咲き」と言います。夏の 暑さが続いたため、暑さが長引いたため、異常な事態が起こったのです。桜 は普通、三月四月に咲くもので、自然界には法則があります。
    道徳の世界にも、道徳の法則があって、これは人間同志が定めたものとい うより、もっと根底的なものです。創造主によって、人間性質の中に刻み込 まれたものです。それは時代によって変わらないのです。

    純潔は、美しさの源です。純潔は美しさ、そのものなのです。

B.リベカの第二の特長は、勤勉だったことです。16節。

   リベカが怠け者で、家、といっても天幕ですが、に篭もってばかり居たら どうでしょうか。アブラハムのしもべとの井戸辺での出会いは決して起こり ませんでした。しかし、リベカは勤勉で、労働に従事していたのです。家の 仕事に精を出していたのです。彼女は人生とガップリ4つに組んで生きてい たのです。自分の人生を一生懸命生きる姿、これまた美しいものです。  連続幼女殺人事件の宮崎某は、人生とガップリ4つに組んで生きてはいま せんでした。架空の世界、映像の世界、ビデオの世界に逃避し、のめり込ん でいた、と言われています。リベカの時代に勿論、ビデオも映画も、テレビ もありませんでした。しかし、いずれにしても、リベカは人生を力強く、汗 しながら生きていた女性でした。

C. リベカの第三の特長は「思遣り」です。19節をお読みください。

   厳しい、苛酷な労働に直面しますと、人はしばしば利己的、自己中心的に なります。他を顧みる心を失います。

   ご主人様は会社での仕事に疲れ、奥様は家事と育児でくたくた。疲れた者 同志で、気をつけていませんと、思遣りのこころが失われてきます。両方と もが利己的になり、要求がましくなるのです。「疲れているのだ。アアして くれたら、コウしてくれたら、、、」

   リベカも人です。疲れを知らないわけではありません。しかし、「飲ませ てください」というしもべの願いに接した時、「どうぞ」といって、水瓶を 差し出しました(18節)。それのみか、19節には、ラクダのための水汲 みの奉仕を申し出ているのです。

   新約聖書の「サマリヤ人の女」の記事をみますと、リベカの態度とは対称 的な態度にお目に掛かります。彼女は人生に疲れた女性でした。生きる希望 を失いかけていた女性でした。「飲ませてください」という主イエスの願い に接した時、彼女は「面倒臭い、何で私にそんな願いを持ってくるのか」と 言わんばかりの態度をとっています。自分の事で精一杯。他人様の事などに かまっている余裕などはないのです。

   リベカはそうではありませんでした。20節をお読みください。

   21節。そのリベカの姿をアブラハムのしもべはじっとみつめていました。 しかし、リベカは人前の点数稼ぎのために行動していたのではないのです。 それは彼女の人柄から流れ出てきているものでした。リベカは美しい娘さん だったのです。リベカのように真実に人生を生きていると、神の時は必ず巡 ってきます。

U さて第二に、「リベカを見出したしもべの特長」を見てみましょう。

A.先ず、この人は主に対する意識を常住的に持っていました。

    ・12節−恵みを祈り求める姿勢があります。
    ・21節−主を待ち望む姿勢です。
    ・26、27節−主への賛美、感謝に気持ちが書き記されています。
    ・35節−主への信頼のたしかさがありました。

   このしもべは、常に主をこころに留めて行動したのです。主は、彼にとっ て遠い存在ではなく、いと近い存在でした。

   私たちは「礼宮さま」といってみたところで、テレビや新聞の記事だけの ことで、礼宮さまは、私にとって遠い存在です。しかし、紀子さんにとって は、礼宮さまはリアルな方です。ただテレビの画面上の存在とは異なるので す。

   ある人にとっては、神は画面上の人物のようなもので、リアルになってい ません。近い方にはなっていないのです。アブラハムのしもべは、神を現実 的なお方として捉えていました。このしもべ祈りの器だったのです。42節 から44節迄をお読みください。

   祈っては依り頼み、そして、進む時に開かれない道はありません。解決の ない問題はないのです。

    祈れ物事、みなままならず、
    胸に憂いの雲、とざす時、
    祈れ、よし道は暗くあるとも、
    祈れ、凡てを主に委ねて。

   今神学院では礼拝堂の建築が進められていますが、床のPタイルのあると ころは、赤と黒の市松模様と聞いています。たいへんモダンなデザインのよ うです。しかし、クリスチャン生涯とは「祈ること」と「委ねること」の市 松模様でできています。

B.もうひとつ、このしもべに関して言えば、この人は人との交渉に勝れた 人物でした。人の心を捉える術を知っていました。

   神の干渉があると言うことは、人間側の知恵、努力、工夫がいらない事を 意味しません。神的な面と人的な面とが混然一体となってよい結果を生みだ しているのです。この両面のある事を心に留めておきましょう。

   ある人は、神の干渉のみを待ち望みます。そして、人間的な努力を一切し ようとしません。他の人は、人間的な努力のみを強調して、神の干渉、祝福 を忘れています。この両方とも間違いで、神的な面と人的な面とのバランス が大切なのです。これが成功への鍵です。

V 最後の点として、「選ばれたリベカの決断」について考えましょう。

   56、57節を見ますと、イサクとリベカの結婚に向けて最後の仕上げの 部分が記録されています。リベカをみいだしても、彼女をイサクの許に連れ て行くことができなければ、凡ては水の泡です。そして、その最後のいっ点 はリベカ自身の決断に掛かっていたのです。

   先週、私たちは聖餐式を守りましたが、その聖餐式との関連で、キリスト のあがないの事実に思いを向けました。「決断」について語りましたが、そ れは私たちの信仰の決断として、こころに留めたことです。信仰生活を送る とは、キリストのプロポ−ズを、「ハイ」と受け止めることだと申し上げま した。キリストに終生従って行く心を固める事です。キリストと人生を共に する決意、これが入信するという意味だ、ということを心に留めました。

   今朝は、そのような霊的な解釈ではなく、結婚ということにおいての決断 の必要を学びましょう。ある人は「結婚は一種の賭である」と言います。確 かに、その要素がない訳ではありません。若い方々は、結婚前にお互いが知 り合うという事を重要と考えます。そうでないと言うつもりはありません。 お互いに知り合うことは大切です。

   しかし、2、3年のつき合いで、お互い同志、どのくらい知ることができ るのでしょうか。人は海に浮かぶ氷山のようなもので、目に見える部分はほ んのその人の一部分にしかすぎません。見えない部分が、水面下に大きくあ るのです。結婚に踏み出す時、私たちも、人には海面かの見えない部分が大 きくある事を弁えたうえで、リベカのように「ハイ、参ります」という決断 をすることが大切だという事です。

   リベカはイサクとの結婚を決意しました。そして人々の祝福に送り出され て見知らぬ土地への旅路についたのです。63節を見てみますと、イサクが 「目を上げた」とあります。64節には、リベカも「目を上げ」とあります。 この記述、描写はいかにも象徴的です。イサクとリベカとの呼吸が初対面か らピッタとあっていた事を物語るかのようです。この時まで見知らぬ二人で した。しかし、彼らは最初から息があっていたのです。神のみこころのある ところには、必ずこの一致があります。

   67節を読んで、今朝の学びを閉じましょう。彼らは愛しあい、リベカは イサク、母親を亡くしたイサクにとって慰めとなった、と記録されています。 ふたりの祝福された結婚生活が始まったのです。

   私たちの教会に若い方々が与えられている事を感謝します。そして、おひ とりびとりが、ご自分の将来を大切にしてくださるようにと願います。主が 助けて、イサクの結婚を成功裡に導いてくださったように、皆様の結婚をも 主が確かに導き、助けてくださるようにと祈ります(1989/10/01、礼拝)。

■ キリスト、ペテロの足を洗う

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