. . 聖書・「神のみことば」は、真理の尽きない泉です。深く掘れば掘るほど、豊かな甘い水を湧き出します。
このページは、フィリップの「井戸掘り日記」」と名付けました。
「ダビデの生涯」 に学ぶ : 第35講
■ 今日の「井戸掘り」

 . . 「ダビデは使いの者をやって、その女を召し入れた。女が彼のところに来たので、彼はその女と寝た。、、、それから女は自分の家へ帰った。」. . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . .サムエル第二・11:1〜21

■ 井戸を掘りましょう:

. .この事件の後、ダビデは「罪ある者として母は私をみごもりました」と言いましたが、すべての人を汚している、生れながらの罪への傾き易さの事実。ダビデのような優れた信仰者であっても、その力から逃れることができなかったのです。正に聖書に「立っていると思う者は、倒れないように気をつけなさい」とあるとおりです(第一コリント10:12)。

. .クリスチャン作家の三浦綾子さんが、終生追求したのがこの原罪といわれる、人間が持って生まれた罪の性質です。表面的には、善人であり、真面目な人であっても、その心の奥底に罪への傾き易さを秘めているのが、人間存在の否定できない事実なのです。ダビデもその力の前に屈しました。兵士を戦場に送り、宮殿に自分だけ残っていたダビデには、信仰の弛みが見られたのでしょう。信仰に緩みの見られた信仰者は、壁のひびから浸透してくる水を防ぐことが難しいように、悪の侵入を防ぐことができませんでした。ダビデは、悪しき思いに捕らわれることを許し、手痛い敗北を喫しました。

. .ただ、ダビデの褒められるべきことは、その悪を指摘された時、直ちに砕かれたことです。何の言い訳もしないで、ダビデは主の前に砕かれました。詩篇51篇17節。

. .人間の生まれながらにして持っている、この課題に打ち勝つ道は、唯一、自分で「立っている」という傲慢な思いを捨てて、主に依り頼んで聖霊に満たされ続けることです。どのような修業も、人間的な悟りも、この問題に対抗するのには無力なのです。神の霊が私たちの心を満たし、それを支配する時のみ、私たちはこの罪への傾向性に打ち勝つことができます。

高知県・越知町の大樽の滝


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