. . 聖書・「神のみことば」は、真理の尽きない泉です。深く掘れば掘るほど、豊かな甘い水を湧き出します。
このページは、フィリップの「井戸掘り日記」」と名付けました。
「ダビデの生涯」 に学ぶ : 第A35講
■ 今日の「井戸掘り」

 . . 「年が改まり、王たちが出陣するころ、ヨアブは軍勢を率いてアモン人の地を荒らし、さらに進んで、ラバを包囲した。ダビデはエルサレムにとどまっていた。ヨアブはラバを打ち、これを破壊した。」.                                    歴代誌第一・20:1〜8

■ 井戸を掘りましょう:

. .歴代誌の記録には、ダビデが犯したバテ・シェバとの罪に関して何も書かれていません。恐らく歴代誌が書かれた時期がそうさせたものと思われます。ダビデが、その罪を預言者ナタンによって指摘され、心を打ち砕かれ、悔い改め、赦された後に、記録が書かれたのではないでしょうか。

. .神は赦し、そして、犯された悪を海の深みに葬り去られるお方です。すなわち、神はダビデの罪を赦すのみか、忘れてくださるお方なのです。それですからダビデの罪について、ここに、このように書かないほうがよいのかも知れません。

. .神は赦し、忘れ去ってくださるのですが、人は時として、罪の記憶をいつまでも保っていることがあります。使徒パウロは、自分の証しに言及する時、必ずと言ってよいくらい、彼の迫害者だった時代のことを語っています。「私は以前は、神をけがす者、迫害する者、暴力をふるう者でした。」(テモテ第一、1:13)。パウロは自分の過去の罪を忘れることができなかったのでしょう。

. .過去になした悪の記憶は、私たちの心では決して消えることなく、心の奥にそのまま保管されいます。そして、折々、その記憶が蘇ってくるのです。しかし、感謝すべきことは、そのような蘇ってきた記憶には、良心の痛みが伴わないことです。その記憶は、新しい記憶、すなわち、キリストにあって赦されたという自覚とともに、記憶の中に戻ってくるからです。「それでも、信じていないときに知らないでしたことなので、あわれみを受けたのです。」(テモテ第一、1:13)

. .サタン、私たちを試みる者は、過去の罪の記憶を呼び覚まして、私たちを責め立てることがあるかも知れません。そのような時、主イエスの十字架をもう一度仰いで、そこにあって私の罪はすべて処理され、最早、神はそれを覚えることさえしておられないことを信仰によって想い起こしましょう。

高知県・越知町の大樽の滝


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