このページは、フィリップの「井戸掘り日記」」と名付けました。
■ 今日の「井戸掘り」
. . 「喪が明けると、ダビデは人をやり、彼女を自分の家に迎え入れた。彼女は彼の妻となり、男の子を産んだ。しかし、ダビデの行ったことは主のみこころをそこなった。」. . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . .サムエル第二・11:16〜21
■ 井戸を掘りましょう:
. .社会はダビデのやった行為を容認することがあるかもしれません。以前は、姦淫罪を法律で定めていた国家も、現代では、他人の妻との性的な関係を不道徳としては見るでしょうが、法律的な責任を問うことはしなくなっています。国家の法律に代表される人のスタンダードは、時代とともに変化します。
. .しかし、今日の聖書箇所に見られる「しかし、ダビデの行ったことは主のみこころをそこなった」ということばは、何と重い意味を有していることでしょうか。人が容認することがあっても、主のみこころにはかなわないことがあるのです。そしてこの基準こそ、時代を超えて私たちが準拠すべき基準なのではないでしょうか。この基準は時代によって変化することはありません。
. .ポスト・モダンと言われる時代の特徴のひとつは、相対化が更に先鋭化したことにあります。絶対と言えるものを否定し、すべてが相対的なものと考える思想が支配的になっています。彼らは絶対的なものはない、と断定します。それでいてそのように断定すること自体が、その意見を絶対視していることに気づかないのです。
. .道徳の基準は決して相対的なものではありません。「主のみこころをそこなった」− ここにおける主のみこころは絶対的なもので、時代を超え、国境を越え、主が創造された道徳的な存在すべてに適応されます。「主のみこころ」、これこそクリスチャンがこころし、求めるべき事柄であることをしっかり心に留めましょう。