. . 聖書・「神のみことば」は、真理の尽きない泉です。深く掘れば掘るほど、豊かな甘い水を湧き出します。
このページは、フィリップの「井戸掘り日記」」と名付けました。
「ダビデの生涯」 に学ぶ : 第43講
■ 今日の「井戸掘り」

 . . 「ダビデが、神を礼拝する場所になっていた山の頂に来た。ちょうどその時、アルキ人フシャイが上着を裂き、頭に土をかぶってダビデに会いに来た」. . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . .サムエル第二・15:30〜37

■ 井戸を掘りましょう:

. .ダビデはオリーブ山の坂を、頭を覆って、裸足で、泣きながら登りました。アブシャロムの謀反は、ダビデの心に深い、また、鋭い痛みをもたらしたのです。息子の反逆、それだけでも心の痛む事態でしたが、恐らくダビデは、このたびの出来事がバテシェバ、そしてウリヤに対する自分の愚行・悪行への神の裁きではないかと感じていたようです。それが更にダビデの心の痛み・嘆きを増し加えたことでしょう。

. .しかし「ダビデが、神を礼拝する場所になっていた山の頂に来た時」という一文は、ダビデの信仰がどのようなものであったかを語っています。ダビデは常時神を礼拝する場所を持っていたのです。定まった場所で神を礼拝することは非常に大切です。神は霊なる方ですから、どこで礼拝しても良いし、また、それができる訳ですが、定まった礼拝の場をもっていないことは、結局、真に礼拝することをしないで済ませてしまうことに繋がりかねません。ダビデは常の礼拝の場所に着いて、彼の神をことのほか強く意識したに相違ありません。心に痛みがあるとき、それを癒す道は、神に向かって心を挙げることです。

. .アヒトフェルがアブシャロム側についたことはダビデの心の重荷となっていました。しかし、神は、ダビデに憐れみを施して、ガテ人イタイとその手の内の者、祭司ザドクとその子、アヒマアツとエブヤタル、アルキ人フシャイなどがダビデの側につくことをお許しになりました。特に、フシャイの存在は「アヒトフェルの助言を打ちこわ」すこととなって(34節)、ダビデの将来に大きな影響を与える要因になりました。神はおりおりこのような助け手を送って私たちの祈りに応えてくださいます。

. .「もし、私が主の恵みをいただくことができれば、主は、私を連れ戻し、神の箱とその住まいを見せてくださろう」という祭司ザドクへのダビデのことばは、ダビデが信仰を持って事態に対応していたことを物語っています。ある信仰者たちは、ダビデが直面したような困難に出遭うと、信仰を揺すぶられて絶望的になってしまいます。しかし、ダビデはそうではありませんでした。ダビデは一切を主に委ねつつ(26節)、なお主の恵み・憐れみを待ち望んでいたのです。

高知県・越知町の大樽の滝


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