このページは、フィリップの「井戸掘り日記」」と名付けました。
■ 今日の「井戸掘り」
. . 「ダビデはアビシャイと彼のすべての家来たちに言った。『見よ。私の身から出た私の子でさえ、私のいのちをねらっている。今、このベニヤミン人としては、なおさらのことだ。ほっておきなさい。彼にのろわせなさい。主が彼に命じられたのだから。多分、主は私の心をご覧になり、主は、今日の彼ののろいに代えて、私に幸せを報いてくださるだろう。』ダビデと彼の部下たちは道を進んで行った。」. . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . .サムエル第二・16:1〜14
■ 井戸を掘りましょう:
. .アブシャロムの反逆は、ダビデの失脚を願うソウルの家の者にとっては、正にその時が到来したかのように思えました。「いい気味」とばかり、サウルの家に属するシムイは、都落ちするダビデ一行に罵声と呪いのことばを浴びせたのです。協力する者もいれば(16:1〜4)、反発する者もいる(16:5〜14)、これが人の世の常です。
. .ダビデは、すべてが主のみ心によって起こっていることを頷いて、敢えてシムイの行為に自ら手を下して、復讐すると言うことはしませんでした。ダビデは、ことの一切を主のみ手に委ねたのです(12節)。
. .とはいえ、第14節の「王も、王とともに行った民もみな、疲れたので、、、」ということばは、彼らの疲れが単なる肉体的な疲れだけではなく、精神的な疲れもあったことを想像させます。人の罵りのことば・悪口は、それを聞く者に精神的な疲れを与えるものです。
. .そのような時、ダビデ一行が「そこで一息ついた」とあるのは、いかに賢いことでしょうか。精神的疲れは一息入れることによってずいぶんと緩和されます。どのようなことばであっても、心に余裕があるとき、それを平静さをもって受け止めることができるのです。しかし、肉体的に疲れ、また、心に余裕のないときには、心ない人の悪口・罵倒のことばは余計鋭く心に突き刺さってきます。ですから殊に厳しい状況の中では「一息」入れて、心の余裕を持つことが大切です。それによって余裕を持って事態に対応する恵みを見いたすことでしょう。