. . 聖書・「神のみことば」は、真理の尽きない泉です。深く掘れば掘るほど、豊かな甘い水を湧き出します。
このページは、フィリップの「井戸掘り日記」」と名付けました。
「ダビデの生涯」 に学ぶ : 第46講
■ 今日の「井戸掘り」

 . . 「アヒトフェルは、自分のはかりごとが行われないのを見て、ろばに鞍を置き、自分の町に帰って行き、家を整理して、首をくくって死に、彼の父の墓に葬られた。」. . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . .サムエル第二・17:15〜29

■ 井戸を掘りましょう:

. .アヒトフェルは、自分の謀りごとが行われないのを見て、アブシャロム側の敗北を予測したようです。そうなればダビデによって断罪されることになる、そう考えて自害してしまいました。聖書にはこの箇所を含めて何人かの自殺の記事が見出されます。聖書に書かれているからと言って自殺と言う行為を容認している、と考えてはなりません。聖書は、事実を事実として述べているだけで、記されていることすべてを容認しているわけではないのです。

. .それでは聖書は「自からいのちを絶つ」と言う行為を、どのように考えているでしょうか。基本的には、モーセの十戒の第6項目「殺してはならない」に反するものと理解されますでしょう。自分のいのちは、自分のものだから、自分でどうにでもできる、と言う考えが根底にあるようですが、その理解そのものが間違っているのではないでしょうか。自分のいのちではありますが、それは創造主によって、いのちの源なる神によって与えられたいのちです。自分のものであって、自分のものではない、いのちは、唯一の神からの尊い委託物なのです。ですから、自分勝手にしてはいけない類のものなのです。

. .それでは「自殺」という形で、自らの生涯を閉じた人々の永遠は、どのようになるのでしょうか。神の戒めに背いて死を自ら選び取ったことをもって、神に裁かれるのでしょうか。私たちの神は生ける神であって、杓子定規の神ではありません。主である神は、ひとりびとりを熟知しておられて、その人に最も相応しく対応してくださるお方です。自らいのちを絶つには、人それぞれの事情がありますでしょう。神はその事情を良く弁え知って、それに応じて判断されますでしょう。そして言えることは、神は義であるとともに、愛の神であっられると言うことです。

. .こうした分野には、第三者が踏み込むことのできない、神とその人だけの関係があります。傍観者はあれこれ言い立てるのを止めて、主である神にすべてを委ねる姿勢をとることが相応しいでしょう。神は、その判断において過つお方ではありませんから、私たちがとやかく言う必要はないのです。

. .唯、聖書は、私たちが与えられたいのちを大切にして生きるようにと勧めていることは確かです。どのような問題・試練があっても、助け主が近くにおられるのですから、苦難を耐えてでも生きる意義があること(第一コリント10章13節)を、聖書は教えています。聖書には自殺を容認する姿勢は見出されないことをしっかり心に刻んでおきましょう。 高知県・越知町の大樽の滝


Copy right 2004 PZH
All rights reserved. 許可なく転載を禁じます。

■ トップ・ページにもどる