. . 聖書・「神のみことば」は、真理の尽きない泉です。深く掘れば掘るほど、豊かな甘い水を湧き出します。
このページは、フィリップの「井戸掘り日記」」と名付けました。
「ダビデの生涯」 に学ぶ : 第48講
■ 今日の「井戸掘り」

 . . 「すると王は身震いして、門の屋上に上がり、そこで泣いた。彼は泣きながら、こう言い続けた。『わが子アブシャロム、わが子よ。わが子アブシャロム。ああ、私がおまえに代わって死ねばよかったのに。アブシャロム。わが子よ。わが子よ。』」. . . . . . . . . . . . サムエル第二・18:19〜33

■ 井戸を掘りましょう:

. .アブシャロムが戦死し、彼のいのちがあえなく戦場の露と消えたとき、若いアヒマアツは、ダビデにとってそれは彼の命の危機が去ったことを意味する喜びのニュース(19節)、と判断して伝令を買って出ました。しかし、年を経て人生の経験を重ねたヨアブは、アブシャロムの死のニュースはダビデにとって悲しみのニュースとなるので(22節)アヒマアツではない他の者を使者として遣わそうとしました。アヒマアツにはヨアブの意図も、ダビデの悲しみも理解できなかったようです。アヒマアツは、ヨアブの助言にも拘わらず伝令として立てられたクシュ人のあとを追ってダビデの許へと急ぎました。

. .ヨアブの予想通りアブシャロムの戦死のニュースは、ダビデにとって大きな心の痛手をもたらしました。自分の身の安全より、わが子アブシャロムのいのちのほうがダビデにとっては大切とも思えたのです。アブシャロム戦死のニュースに接した時のダビデの深い悲しみが、冒頭のことばによって表明されています。

. .ここで「わたしがおまえに代わって死ねばよかったのに、、、」と嘆いたダビデのことばを心に留めましょう。ダビデは実際にはそのようにすることはできませんでした。しかし、天のみ父は自分に対して反逆し、自分の許から去っていた神の子らのために、御子イエスを身代わりとしてこの地上に送り出されたのでした。人は誰でも死にます。それでも死ぬために生きている人はいません。しかし、主イエスの場合は、正に死ぬためにこの地上に生まれたのです。主イエスの肉体のいのちは最初から世のために与えるためのいのちでした。謀反という罪の結果を負って死ぬべき人のいのちに代わって十字架で世のために与えるべきいのちだったのです。

. .神は「ただひとり死のないお方で」(Tテモテ6:16)あるので、ご自分が人に代わって死を味あうわけにゆきません。そこに神の御子の受肉、すなわち、御子が人となって人の世に宿るという出来事の神秘があります。背き去ったアダムの子らの救いには、壮大な贖いのドラマがあるのですが、あまりにも壮大なため、私たちの多くはそれが理解できないで、受け入れがたく感じるのです。

. .しかし、御子の死の背後にある御父のみおもい「わたしが代わって死ねば、、、」ということが把握されると、贖いの神秘、そこに見る御父のみおもいの重さに心が打たれます。わたしたちにとっては、御子による贖いの御業の効果を信じ、受け入れることが最も相応しい、神の愛への応答の態度ではないでしょうか。

高知県・越知町の大樽の滝


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