このページは、フィリップの「井戸掘り日記」」と名付けました。
■ 今日の「井戸掘り」
. . 「ダビデの時代に、三年間引き続いてききんがあった。そこでダビデが主のみこころを伺うと、主は仰せられた。『サウルとその一族に、血を流した罪がある。彼がギブオン人たちを殺したからだ。』」 . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . サムエル第二・21:1〜14
■ 井戸を掘りましょう:
. .「ギブオン人」とは、エモリ人の生き残りの者たちであると記されています(2節)。イスラエル人は彼らと盟約を結んでいたにも拘らず、彼らがイスラエル人ではないので、サウルは彼らを打ち殺そうとした、と言うことが過去にありました。
. .私たちはしばしば過去の出来事は、時間の経過とともに記憶から薄れてゆくと考えます。「忘却の彼方に葬り去る」ということは、神が人に与えられた悲しみを乗り越えてゆく一つの方法でしょう。確かに「忘れる」ということは、恵みであるかもしれません。
. .しかし、過去のこととして単純に葬り去ることのできないことこともあります。私たちの道徳的な行為がそうです。過去になした、未だ赦されていない罪、また、処置されていない悪は、単に年月が経ったからといって「どうにでも良くなる」類のものではありません。聖書的な表現を用いれば「流された血はいつまでも地にあって叫び続けるのです。」
. .被害を蒙った側は、どのような昔のことでも、それが今起こったかのように、痛みを伴って過去の出来事を覚えているでしょう。そして、正義の神も過去の罪をなおざりにして放置なさる方ではありません。「なされた罪は血をもって贖わなければならないのです。」ここに赦しの根拠としての主イエスの十字架のみ業の素晴らしさがあります。主は、唯一度、すべての罪の贖いとして十字架に血を流されたのでした。これが新約の恵みです。しかしダビデは未だ、旧約の時代に生きていました。十字架による解決ではない方法での解決が求められたのです。