. . 聖書・「神のみことば」は、真理の尽きない泉です。深く掘れば掘るほど、豊かな甘い水を湧き出します。
このページは、フィリップの「井戸掘り日記」」と名付けました。
「ダビデの生涯」 に学ぶ : 第54講
■ 今日の「井戸掘り」

 . . 「ペリシテ人はまた、イスラエルに戦いをしかけた。ダビデは自分の家来たちをを連れて下り、ペリシテ人と戦ったが、ダビデは疲れていた。」. . . . . . . . . . . . サムエル第二・21:15〜22

■ 井戸を掘りましょう:

. .百戦練磨のダビデも「疲れていた」とあります(15節)。人は鋼の肉体を与えられていないのです。人が与えられているのは「土の器」と呼ばれる脆い、壊れやすい肉体です。それにしてもダビデは何故疲れていたのでしょうか。

. .ダビデの疲れは、加齢ゆえの疲れだったことが容易に想像されます。歳を加えてきて老いるということがどのようなことなのか、その年齢に達しませんと中々理解できません。しかし、ある年齢を超えると、人は容易に疲れを覚えるようになります。勇者ダビデもそうでした。彼も例外ではなかったのです。

. .ダビデの生涯は戦いの連続でした。後に、ダビデが神殿の建築を意図したとき、神はダビデの手が血で汚れていることを理由に、その働きを子のソロモンに委ねるように語られたほどでした。戦いの連続は人を疲労困憊に追いやります。17節に「あなたは、もうこれからわれわれといっしょに、戦いに出ないでください。あなたがイスラエルのともしびを消さないために」とダビデの部下が懇願したとありますが、命がけの戦いの連続は、当然疲労をもたらしたことでしょう。

. .この聖書箇所には「ツェルヤの子アビシャイ」、「フシャイ人シベカイ」、「ヤイルの子エルはナン」、「ダビデの兄弟シムアの子ヨナタン」などの名が記されています。また「ダビデとその家来たち」ということばも見出されます。性格も能力も異なった多くの人々の上に立って、彼らを正しく起用するということは決して容易なことではありません。ダビデはどんなにか気遣う必要があったことでしょうか。人への気遣いは、当然疲れをもたらします。その疲れは精神的な疲れで、単なる肉体的な疲れよりももっと激しいものです。

. .人はいろいろな理由で「疲れる」もの、疲労を回避できない存在だということを心に留めておくことは必要なことです。すなわち、人には適切な休養が必要だということです。神の御許に駆け込んで、そこで、御翼の許に憩うことを学びましょう。

高知県・越知町の大樽の滝


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