. . 聖書・「神のみことば」は、真理の尽きない泉です。深く掘れば掘るほど、豊かな甘い水を湧き出します。
このページは、フィリップの「井戸掘り日記」」と名付けました。
「ダビデの生涯」 に学ぶ : 第55講
■ 今日の「井戸掘り」

 . . 「私は苦しみの中に主に呼び求め、わが神に叫んだ。主はその宮で私の声を聞かれ、私の叫びは、御耳に届いた。」. . . . . . . . . . . . サムエル第二・22:1〜20

■ 井戸を掘りましょう:

. .日本の諺に「苦しい時の神頼み」というのがあります。苦しい時に神を求める、そのこと自体は、人の成り立ちの中に組み込まれた自然の営みと言えます。苦しい時に神に依り頼むことは間違ったことではありません。

. .問題はどのような神を求めるかで、「鰯の頭でも信心次第」と日本の諺では言いますが、最初の諺は間違っていなくても、こちらの諺は誤っているといえます。信じていればその対象は別に何でも構わないというのは如何にも乱暴な考え方です。決してそうではありません。そのような信心を狂信といいます。

. .ダビデが依り頼んだ神、それは創造主なる神、また、歴史の支配者である神でした。いのちの源として、人が元来依り頼んで生きてゆくべきお方です。苦しみの時のみならず、常住的にこのお方に依り頼んで生きる時に、人は創造の目的にかなって真に神に似せて創造された人としての人生を生きることができるようになるのです。

. .苦しい時に神を呼び求めるということは、そうしたたましいの常住的な営みの一部としてなされる時に最も意味があります。苦しい時だけ神に叫び求めることも無意味ではありません。主なる神は憐れみ深いお方ですから、私たちの叫びを無碍に無視されることはなさらないでしょう。しかし、それが、たましいの常住的な営みの一環としてなされる時、神に叫ぶということの意味が最もよく発揮されるのです。常々祈る人であり続けましょう。

高知県・越知町の大樽の滝


Copy right 2004 PZH
All rights reserved. 許可なく転載を禁じます。

■ トップ・ページにもどる