. . 聖書・「神のみことば」は、真理の尽きない泉です。深く掘れば掘るほど、豊かな甘い水を湧き出します。
このページは、フィリップの「井戸掘り日記」」と名付けました。
「ダビデの生涯」 に学ぶ : 第56講
■ 今日の「井戸掘り」

 . . 「この神こそ、私の力強いとりで。私の道を完全に探り出される。彼は私の足を雌鹿のようにし、私を高い所に立たせてくださる。戦いのために私の手を鍛え、私の腕を青銅の弓でもひけるようにされる。」. . . . . . . . . . . . サムエル第二・22:21〜37

■ 井戸を掘りましょう:

. .この詩篇には、主がダビデにとってどのようなお方であったかが、いくつもの比喩で語られています。「わが巌」、「わがとりで」、「わが救い主」、「わが岩なる神」、「わが盾」、「わが救いの角」、「わがやぐら」、「私の逃げ場」、「私のささえ」、「私のともしび」、「私の力強いとりで」、「私のために復讐する方」、「私のもとに下らせる方」、「私を携えだされる方」、、、。いくつこのような表現があるでしょうか。

. .私たちが、神を思い起こして、様々と表現しようとする時、私たちは主である神を何にたとえて表現しますでしょうか。多分、ダビデほど多くの表現で描写することができないで終わってしますような気がします。それだけ私たちの神経験は、ダビデの経験と比べて貧弱だからではないでしょうか。

. .神を知ること、ここにこそ信仰の中心があります。インマヌエル教会の初代総理・蔦田二雄師は「祈りにおいて、自分が祈っている対象がどのような神かが捉えられたなら、祈りはもう半分以上終わったようなものである」としばしば仰いました。私たちの祈りが空回りして、実りが少ないのは、祈りを聞いてくださる神がどのようなお方かを確かめないで、ただ、ことばを並べて自分の願い事を羅列するからではないでしょうか。

. .心を神に挙げて祈る時、先ず、祈りの対象である神がいかなるお方であるのかを、しっかり時間をかけて思い巡らしましょう。主が私の心の願いを、しかも、自分でさえ気づかない、その心の深みに至るまで知っておられるお方だということが頷けたなら、願い事のれ列に費やす時間はあまり長くなくて済むはずではないでしょうか。「知っていてくださるあなたに、すべて委ねます」との祈りが口を突いて出たならば、祈りはもう十分祈られたのです。

高知県・越知町の大樽の滝


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