. . 聖書・「神のみことば」は、真理の尽きない泉です。深く掘れば掘るほど、豊かな甘い水を湧き出します。
このページは、フィリップの「井戸掘り日記」」と名付けました。
「ダビデの生涯」 に学ぶ : 第57講
■ 今日の「井戸掘り」

 . . 「まことにわが家は、このように神とともにある。とこしえの契約が私に立てられているからだ。このすべては備えられ、また、守られる。まことに神は、私の救いと願いとを、すべて、育て上げてくださる。」.                          サムエル第二・23:1〜19

■ 井戸を掘りましょう:

. .第1節に「これはダビデの最後のことばである」とありますが、多分、ダビデが公けに語ったという意味での最後のことばなのでしょう。ダビデの生涯の真の意味での最後のことばは、第一列王記2章の2節以下にに記録されていて、それは息子のソロモン個人に対するものでした。

. .ダビデがここで、「まことに神は、私の救いと願いとを、すべて、育て上げてくださる」と言っていることは大変興味深いように思います。先ず、神がダビデの「願いを、すべて、育て上げてくださる」と言われていることを思い巡らしましょう。ピリピ人への手紙2章13節には「神は、みこころのままに、あなたがたのうちに働いて志を立てさせ、事を行わせてくださるのです。」とあります。私たちが崇高な願い事を持つこと自体、神の働きかけによるのです。しかし、それ以上に「神は、願いを、すべて、育て上げてくださる」とここにあります。神は、人の心に壮大な願いを起こし、また、それを大切に育て上げてくださるお方なのです。このようにして、私たちは「信仰によって国々を征服し、正しいことを行」うのです(ヘブル11:33)。

. .神は、私たちの願いだけではなく、救いも「育て上げてくださる」お方です。「育て上げる」ということを考える時、救いには二つの面があることに気づきます。すなわち、瞬時的に私たち与ることのできる救いの面と、徐々に時間をかけて育て上げる面とのふたつの面です。私たちは、しばしば、瞬時的な救いの経験を強調して、育て上げられる面を忘れがちです。

. .瞬時的な面としての救いは、基本的には、初持的な救い、そして、究極的な救いの経験に関わっており、漸進的な面としての救いは、クリスチャン生活の全般、それ故、私たちの潔めの歩みに関わっています。始まった救いのみ業は、決して止まることなく、生涯的に展開され、育て上げられてゆくのです。その意味で、救いは継続的な神の御業です。

. .ここにおいて、新約聖書に基づくウエスレアン神学によると、漸進的な潔め、潔めのプロセスの中にも、もう一つの転機があるのです。それが全き潔めの転機で、私たちの心から、アダム以来の神に背く性質、「肉」、「肉の性質」が放逐されて、心が全く潔くされる瞬間があります。第二の転機としての「全的聖化」の時です。しかし「潔め」の経験における重点は、そのプロセスにあって、漸進的、生涯的な面です。すなわち、神によって育てていただく「救い」の面に関わることと言えましょう。

高知県・越知町の大樽の滝


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