. . 聖書・「神のみことば」は、真理の尽きない泉です。深く掘れば掘るほど、豊かな甘い水を湧き出します。
このページは、フィリップの「井戸掘り日記」」と名付けました。
「ダビデの生涯」 に学ぶ : 第59講
■ 今日の「井戸掘り」

 . . 「すると、ヨアブは王に言った。『あなたの神、主が、この民を今より百倍も増してくださいますように。王さまが親しくこれをご覧になりますように。ところで、王さまは、なぜ、このようなことを望まれるのですか。』しかし、王は、ヨアブと将校たちを説き伏せたので、ヨアブと将校たちは、王の前から去って、イスラエルの民を登録しに出かけた。」.                          サムエル第二・24:1〜9

■ 井戸を掘りましょう:

. .「王さまは、なぜ、このようなことを望まれるのですか。」というヨアブの質問が暗示しているように、イスラエルの民を登録しようと考えた時のダビデの意図が問題だったのです。すなわち、戦士の数を確認して、その数の多さに依り頼む、戦力を誇り、戦力に依り頼もうという思いが根底にあります。それはとりもなおさず、主である神への不信仰の表れでもあるのです。

. .詩篇に「君主たちにたよってはならない。救いのない人間の子に。」(146:3)、「まことに、人の救いはむなしいものです。」とあります。「神こそ、、、敵を踏みつけられる方」なのです(60:11、12)。ですから、神に依り頼んで、戦士の数が多かろうと少なかろうと、そんなこととは無関係に神によって勝利を確信して前進するのが、信仰者としてのあり方であるはずなのです。しかし、ダビデは、その信仰が揺らいだのでしょうか。想いを主である神にではなく、朽つべき人に向けて、その数に依り頼もうとしていたのです。10節には「ダビデは、民を数えて後、良心のとがめを感じた。」とあります。

. .ダビデのみならず、なんと多くの人が、神以外のものに信頼を置いて、人間的な助けの多さ、地上的な富の豊かさ、、、を誇っていることでしょうか。そして、そのようなものがあるために、真剣に神の助け、干渉を期待することをしません。すなわち、信仰的な姿勢を取ることを忘れているのです。神は、そのような姿勢を喜びはなさらないのです。否、正しくないものとして断罪されるのです。

. .後で良心の咎めを感じるような行動にはいつも問題があります。ダビデがヨアブのことばに耳を傾けて、その助言に聞き従っていたなら、後で悔いるようなことにはなりませんでした。時として神は、思わない人を通して語り、正しい道を示されることがることを心に留めましょう。周囲の人からの助言があるとき、それがどのような人から与えれても、それに謙虚に耳を傾けて、後で後悔するような行動を起こさないことが賢い人のあり方ではないでしょうか。

高知県・越知町の大樽の滝


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