. . 聖書・「神のみことば」は、真理の尽きない泉です。深く掘れば掘るほど、豊かな甘い水を湧き出します。
このページは、フィリップの「井戸掘り日記」」と名付けました。
「ダビデの生涯」 に学ぶ : 第60講
■ 今日の「井戸掘り」

 . . 「ダビデはガドに言った『それは私には非常につらいことです。主の手に陥ることにしましょう。主のあわれみは深いからです。人の手には陥りたくありません。』」.                          サムエル第二・24:10〜25

■ 井戸を掘りましょう:

. .主のみこころに反して民の数を数えた罪を問われ、ダビデは三つの災いのうちから一つの罰を選ぶように命じられました。ダビデは「主の手に陥ること」を選び、自らを主の御前に投げ出したのでした。「主のあわれみは深い」からだと、その理由をダビデは説明しています。

. .人、殊に現代人は何事も自分で選択して、自分で事を行おうという傾向性が強いようです。自分で選ぶことができることを人間の尊厳、自分の譲ってはならない権利と考えています。しかし、人はそれほど賢いものでしょうか。自分で下す判断がいつも最善なのでしょうか。

. .それにしても、民の数を数え登録するという行為が、7年間の飢饉、3年間の敵の追及、または、3日間の疫病の蔓延、どれにしてもそのような重大な事態を招くほどの問題行為だったのでしょうか。私たち人は、それではひどすぎるといった感を抱きます。しかし、主の御目にはことの大きい小さいではなく、信仰が欠如していたということ自体が問題だったのでしょう。

. .ダビデにとっては「辛い」経験でした。ダビデが「罪を犯したのは、この私です。」と主の御前に謙った時、主はあわれみを示してくださり「もう十分だ。あなたの手を引け」と御使いに命じなさいました。ダビデが主のために祭壇を築くことによって、すべてのことは結末を迎えました。「主が、この国の祈りに心を動かされたので、神罰はイスラエルに及ばないようになった。」とあります。「この国の祈り」という表現には、ダビデの行為が個人的なものではなく、国家を代表しての行為だったことを示しています。刑罰が厳しかったのも、そのあたりに理由があるのかもしれません。

高知県・越知町の大樽の滝


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