このページは、フィリップの「井戸掘り日記」」と名付けました。
■ 今日の「井戸掘り」
. . 「ダビデは主を求めて、その前に出て行くことができなかった。主の使いの剣を恐れたからである。」. 歴代誌第一・21:18〜30
■ 井戸を掘りましょう:
. .ダビデの罪への裁きとして「主はイスラエルに疫病を下され」ました。しかし「主は御使いが滅ぼしているのをご覧になって、わざわいを下すことを思い直し、滅ぼしている御使いに仰せられた『もう十分だ。あなたの手を引け。』と語られました。
. .ダビデが民の数を数え主である神に依り頼む代わりに、戦闘力に国家の安全を求めようとした不信仰の罪を悔いて、オルナンの地所に祭壇を築いて全焼のいけにえを捧げからです。「主は全焼のいけにえの祭壇の上に天から火を下して、彼に答えられ」、「御使いに命じられたので、御使いは剣をさやに納めた」のです。罪の贖いがなされて、すべては元通りになったかのように見えます。
. .しかし、冒頭に引用した聖句には「ダビデは主を求めて、その前に出て行くことができなかった」と言っています。罪の行為は私たちを神から遠ざけます。その結果、そこに生じた疎外感は容易に乗り越えられません。アダムとエバが罪を犯したとき、彼らは「主の御顔を避けて園の樹の間に身を隠した」とあります。罪の結果としての、この疎外感は、神である主が「アダムとその妻のために、皮の衣を作」って、着せてくださった後もずっと続いていたようです。創世記4章26節に初めて「セツにもまた、男の子が生まれた。彼はその子をエノシュを名づけた。そのとき、人々は主の御名によって祈ることを始めた。」とあります。恐らくこの時が、アダムを初めとするその子孫たちが罪がもたらした疎外感を乗り越えて、再び主に心を向けた最初の機会だったのではないでしょうか。罪を犯すと言うことは真に惨めな事態を招くことです。ですから、罪を犯すことを極力避けようではありませんか。