. . 聖書・「神のみことば」は、真理の尽きない泉です。深く掘れば掘るほど、豊かな甘い水を湧き出します。
このページは、フィリップの「井戸掘り日記」」と名付けました。
「ダビデの生涯」 に学ぶ : 第AAA63講
■ 今日の「井戸掘り」

 . . 「彼の同族の者たちは勇者であって、2700人いたが、一族のかしらたちであった。ダビデ王は彼らを、ルベン人、ガド人、マナセ人の半部族の上に任命し、すべて神に関する事がら、王に関する事がらに当たらせた。」.      歴代誌第一・26:20〜32

■ 井戸を掘りましょう:

. .イスラエルにおける王制が、周辺諸国における王制と大きく異なる点は、正に、ここにありました。「神に関する事がら」が「王に関する事がら」に常に優先したのです(30、32節)。他の国々では、王が第一人者で、王に関する事柄はすべてにおいて最優先されるのが常でした。しかし、イスラエルにおいては、王に関する事柄は、神に関する事柄に次ぐ第二のところに位しています。

. .ダビデ王は、自分が民によって選ばれて王となった事実とともに、それ以前に、神によって立てられた王であるという自覚をしっかり抱いていました。神の民に対して、神の代行者として立てられている王であって、決して、他の国に於けるように専制君主として振舞ってはならないのです。

. .ソロモンが晩年、主の道から逸脱していった理由のひとつには、ソロモンがこのイスラエルの王制の最大の特徴を十分理解していなかったことにあると考えられます。しかし、ダビデは個人的にも公的にも、詩篇に彼が詠っているように、彼はいつも、彼の「前に主を置いた」のです。それゆえ、ダビデは「主が私の右におられるので、私はゆるぐことがない」(詩篇16:8)と言い得たのです。

. .自分の前に「いつも、、、主を置」くということは、個人的なレベルにおいても、公的なレベルにおいても、王ではない私たちの生涯において大切なことです。そのような心の営み、また、具体的な行動のひとつひとつにおける意識・選択は、私たちの生き様を大きく変えます。主イエスは、私たちが「神の国とその義」とを優先事項とするとき、私たちのこころは「思い煩い・さまざまな心配」から解放たれると語られました(マタイ6:33)。「神に関する事がらを」第一にすることによって、私たちの心は真の解放を見出すのです。

高知県・越知町の大樽の滝


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