■ 今日の「井戸掘り」
「幸いなことよ。このようになる民は。」 詩篇 144: 1〜15
■ 井戸を掘りましょう:
. .「このようになる」とは、どのような状態なのでしょうか。それは「主をおのれの神と」した状態です。この世には、「神」と呼ばれる様々なものが多くあります。しかし、真の神は「主」と呼ばれておられる天地を創造された神しかおられないのです。
. .その唯一の主である神をおのれの神とする民は幸いでると、言われています。主をおのれの神とするということは、その神の御教えに聞き、その戒めに従って生きるということが意味されています。旧共産圏に属していたウクライナに宣教師としていったアメリカ人は、その国での青年活動が如何に困難であったかを語りました。それは70年間にわたって聖書の真理から離れていた社会の中で育てらられた子どもたちには、アメリカの社会に存在するような共通の倫理観が欠如していたからだそうです。
. .絶対者である主が見失われると、そのみこころを言い表した絶対的な道徳基準、すなわち「十戒」が見失われます。人々は、自己中心的な考えに従って、それぞれが良いと思うことを追い求めることになります。当然、そこに出現するのは混乱です。そのような社会では「私たちの息子らが、若いときに、よく育った若木のように」、また、「私たちの娘たちが、宮殿の建物にふさわしく刻まれた隅の柱のように」なることは期待できないからです。
. .真の神をおのれの神とするということは、その神、創造主である神から、豊かな自然界の恵みを受けることも意味しています。それゆえ、そのような民の「倉は満ち」、「羊の群れは」野原で増し加わって幾千万にもなります。「牛は子牛を」安産します。道徳面での祝福と共に、自然の恵みを豊かに享受できるのです。
. .現代社会が直面している自然破壊は、正に、真の神を敬うことを止め、人類に委託された自然をそのみこころに従って正しく管理することを忘れ、自己中心的に欲望の満足を追求してきた近代の文明社会へのつけです。その背後に祝福を止めておられる神の支配があることを心に留めることが必要です。
. .真の神に立ち返って、そのみこころを心に留めて生きること、真の神をおのれの神としてお互いの関係を再調整する時、幸いは再び戻ってくることでしょう。