■ 今日の「井戸掘り」
「私は栄光輝くあなたの主権と、あなたの奇しいわざに思いを潜めます。」 詩篇 145: 1〜21
■ 井戸を掘りましょう:
. .ダビデの名が表題に見出される最後の詩篇です。ダビデの詩篇の最後を飾るのに相応しい聖句ではないでしょうか。ダビデは「私は栄光輝くあなたの主権と、あなたの奇しいわざに思いを潜めます」と詠っています。ダビデの心を占めていたのは、主である神の主権とその素晴らしいみわざだったのです。
. .信仰者として、神の主権、そして、そのみわざに思いを向けることは大変必要な、また、素晴らしいことです。神が主権を持っておられ、起こり来るすべての事態の背後にあって、時にそれを許し、時に、事を積極的に動かしておられると頷くことができることは幸いです。仏教で教えるような、私たちのこの人生の背後にあって働いている力は、前世の業・カルマ・因果といったものではなく、神の主権なのです。また、イスラム教徒が考えているようなアラーが定めた運命なのではありません。愛に富み、私たちをおもんばかってくださっている父なる神の主権に属することなのです。
. .神はその主権を行使して、みわざを世に行われます。神の主権とみわざとは不可分なのです。神のみわざの発動を期待するなら、神の主権を受け入れなければなりません。神が主権を有していることを否定し受け入れようとしないで、神のみわざのみをを期待することは矛盾した態度です。神の主権の行使がそのみわざとなって現れるのですから、、、。
. .「主権」と言う語を聞くと、ある人は身をすくめます。何か恐ろしい概念に聞こえるからでしょう。しかし、神の主権も神のみわざも、神の性質の反映にすぎないのです。神は愛であり、慈しみに富み、哀れみ豊かであるのですから、その主権もそのような神のご性質の発露として行使されます。神のみわざはいつでも神の愛、慈しみ、憐れみ、恵みの反映としてなされるのです。神はその性質に反して主権を発動されることも、みわざをなしなさることもありません。すべてが神のご性質と関わって行われることを頷くことは、なんと素晴らしい平安、満足を私たちの心に齎すことでしょうか。