. . フィリップの「井戸掘り日記」、第一のシリーズ「ダビデの生涯」に学ぶが終わりましたので、今回から第二のシリーズ「ダビデの詩篇」と題して、ダビデによる詩篇から水を汲みます。
「ダビデの詩篇」 に学ぶ : 第 99 講
■ 今日の「井戸掘り」

 . . 「あなたのしもべをさばきにかけないでください。生ける者はだれひとり、あなたの前に義と認められないからです。」            詩篇 143: 1〜12  

  ■ 井戸を掘りましょう:

. .このことを知っている人がどのくらいいますでしょうか。多くの人は、自分の義・自分の行為が神の御前で受け入れられるものと思っています。しかし、預言者イザヤによれば、私たちの義は、それがどのような優れたものであっても、神の御前には「汚れた衣」に過ぎません。人はそのことにことに気づいていません。神のさばきに立ちおおせると思っています。しかし、そのような人は実際、皆無なのです。

. .ダビデはそのことを自覚していました。それゆえ「あなたのしもべをさばきにかけないでください」と祈っているのです。彼の敵はダビデの「たましいを追いつめ」、その「いのちを地に打ち砕き、長く死んでいる者のように」ダビデを「暗い所に住まわせた」のです。その上に、神が彼を捉え、さばきにかけたなら、最早ダビデが望むところは何もなくなります。神が、彼に恵みを施していてくださるという、その意識こそがダビデにとって最後の支えだったのです。

. .敵の迫害の中で、ダビデの霊はそのうちにあって「衰え果て」、心も「うちでこわばりました。」そのような中で、ダビデは静かに「昔の日々を思い出します。」神の「なさったすべてのことに思いを巡らし」て、神の「御手のわざを静かに考え」るのです。そして「御顔を、、隠さないでください」と祈ります。「朝にあなたの恵みを聞かせてください。」と。

. .しかし、ダビデの信仰の素晴らしさは、更に「あなたのみこころを行うことを教えてください。」と祈っていることにあります。私たちの多くは、ダビデのように、神に向かって声を上げはするのですが、助けを求めるのみで、神のみこころを求めようとはしません。祈ったあとは、自分勝手な生涯を生きるのです。自分勝手な道を歩んでゆくのです。しかし、ダビデは、主のみこころを求めました。主が彼を生かしてくださるのは、主の「御名のゆえに、、、」であることを忘れてはいなかったのです。

高知県・越知町の大樽の滝


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