. . フィリップの「井戸掘り日記」、第一のシリーズ「ダビデの生涯」に学ぶが終わりましたので、今回から第二のシリーズ「ダビデの詩篇」と題して、ダビデによる詩篇から水を汲みます。
「ダビデの詩篇」 に学ぶ : 第 98 講
■ 今日の「井戸掘り」

 . . 「私は御前に自分の嘆きを注ぎだし、私の苦しみを御前に言い表します。」     詩篇 142: 1〜7  

  ■ 井戸を掘りましょう:

. .多くの人は、嘆き、苦しむ時、その心のうちを親しい人々にぶつけます。自分の心のうちを明かすことのできる信頼できる親しい家族や友人のいないときは、その嘆きや苦しみを一人で耐えることになります。その結果、悩みが益々深くなって、自分の限界を越えるようになり、最早耐え続けることができなくなります。そのようにして、絶望の淵に追い込まれるのです。

. .ダビデは、人にではなく、神の御前にその心を注ぎだしました。周りに親しい人が誰もいなくても、いつでも傍にあって、私たちの祈りに耳を傾けてくださる方、それがダビデの神でした。また、ダビデの神は、私たちの神ともなってくださいます。イエス・キリストの父なる神は、求めるすべての人の神なのです。

. .神はまた、私たちの道をご存知の方として述べられています。ダビデの敵が彼の歩く道にわなを仕掛けました。しかし、神はその道を知っておられ、ダビデがそのわなに掛からないように守ってくださるお方でもあります。

. .この詩篇の締めくくりには「あなたが私に良くしてくださる、、、。」と記されています。ダビデは、神の良善を信じて疑いませんでした。時として、神のなさることには厳しいと思えるようなこともないわけではありません。しかし、神は、常に善にいました、私たちの善を計られるお方です。しかも、神のなしなさるわざは、私たちが気がつかないことがあっても、いつも私たちにとっての最善なのです。

. .家族や親しい共に勝って、このような神に、苦しみの時、嘆きを心に抱く時、祈りのうちに自分のたましいを注ぎだすすべを知っていることの幸い。ダビデが味わい知っていたその幸せを、私たちの味わい知りたいと願います。

高知県・越知町の大樽の滝


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