. . フィリップの「井戸掘り日記」、第一のシリーズ「ダビデの生涯」に学ぶが終わりましたので、今回から第二のシリーズ「ダビデの詩篇」と題して、ダビデによる詩篇から水を汲みます。
「ダビデの詩篇」 に学ぶ : 第 104 講
■ 今日の「井戸掘り」

 「朝明けに、わたしはあなたのために備えをし、見張りをいたします。」    詩篇 5: 1〜12  

  ■ 井戸を掘りましょう:

. .三連詩の最後のものです。夜から朝、そしてまた、夜を過ごして目覚めた朝の詩篇です。ダビデは神のために「備えをし、見張りをいたします」と詠うのです。朝の祈りは、自分のためではなく「神のため」なのです。神がダビデとの、また、私たちとの交わりを願っておられるので「神のために」なのです。

. .それにしても、なぜ「朝明けに」なのでしょうか。朝は、一日の最初の時だからです。第一の時を神に捧げることは、神第一の生活の具体的な証しとして大切なことです。また、朝は、多くの場合、一日の中で最も妨げの少ない時です。時がたつにつれて雑用が忍び寄ってきます。しかし、朝、時に朝明けには、誰からも妨げられません。静かに神との交わりを確保できる時だからです。更に、朝は、一日を展望して、その日のために主の御前にあって一日の計画を立てるに最善のときでしょう。

. .朝の一時を主の御前に確保して始めた一日と、そのような営みは一切持たないで、漠然と始めた一日とでは、明らかに大きな差がつきます。朝明けに主のために備えをして見張りをすることは、信仰者にとって大切なことです。

. .この「備えをして」と言う語には、旧約の時代、イスラエルの民のなかで、祭司がいけにえを整えて祭壇に準備する時に用いられる語だといわれています。注意深い敬虔な思いをもって、すべてを整える様子が暗示されています。私たちキリスト者は、重ねて犠牲を捧げる必要はありません。尊い神の御子であるキリストが、そのからだを一度十字架の上に捧げられたので、そのただ一つのいけにえで、犠牲はもう十分だからです。ローマ・カソリック教会のミサにおいて、司祭が祭壇の上で、パンと葡萄酒を捧げる時、十字架上のキリストの犠牲を再現しているものとされていますが、キリストの十字架がただ一回限りのものであることを、彼らは理解しそこなっています。十字架上のいけにえは繰り返され得るものではないのです。

高知県・越知町の大樽の滝


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