■ 今日の「井戸掘り」
「主よ。私をあわれんでください。私は衰えております。主よ。私をいやしてください。」 詩篇 6: 1〜10
■ 井戸を掘りましょう:
. .「死にあっては、あなたを覚えることがありません。」と後にいっているように、ダビデは重い病いに掛かっていたようです。その痛み、苦しみの中からの祈りです。病いに掛ったとき、その癒しを願い祈るのは人の常ではないでしょうか。癒されたくない、病気のほうがよいと考える人は稀です。
. .かってのホーリネス教会の指導者は「癒されないのは、信仰が足りないからだ」と即時の神癒を強調しました。しかし、この指導者の神癒の理解は、聖書の教えに即していません。聖書には、ヨブやパウロのように、神を畏れ、真実に信仰の道を歩んでいても、病いに陥る信仰者が見出されますし、そのような人々が必ずしも祈って直ぐ癒されるようには、聖書は教えていません。
. .真実な信仰があっても、深い神のみこころによって病いの中に止められる信仰者もいるのです。彼らが癒されないのは、信仰が足りないからでも、不純だからでもありません。彼らには、時として知らされない、神の測りえないみこころによるのです。信仰と癒しは必ずしも一致しません。それで、インマヌエル教会では、「新生・聖化・神癒・再臨」といってホーリネス教会が四重の福音を主張するようには、神学的に整理していなのです。信仰に呼応している「新生・聖化・再臨」といった神のみわざと、信仰に必ずしも呼応しない「神癒」とを、同列にすることを避けるのです。決して、神癒を信じないのではないのです。私たちも神が癒してくださることは当然のことと信じ受け入れています。
. .また、異教の人たちは、しばしば病気と罪とを結びつけて、その人が犯した罪への刑罰であるかのように教えます。ヨブの友人たちの考えがそうでした。ヨブが何か神の御前に罪を犯さなければ、ヨブ本人でなければ、その子らが神に罪を犯さなければ、ヨブのような苦しみはありえない、だから、自覚していなくても罪を認めて悔い改めるようにと、彼らはヨブに迫りました。ヨブには、それが納得できず、彼の友人たちのことばは、慰めどころか、むしろヨブの苦しみを増し加えるものだったのです。ヨブはあくまで身の潔白を主張しました。
. .主イエスは、個人的な罪と病いとを因果関係で直接結びつけることはなさいません。ラザロのように、神に愛されている人が病いの床に就くことがあることを教えておられます。病いは、朽つべき肉体にあって、アダムの罪ゆえに呻き苦しんでいるこの地上にある限り、信仰があっても必ずしも避けることができるとは限らない現実なのです。勿論、神が癒してくださるお方であることを否定するものではありません。創造主である神は、癒し主でもあられます。しかし、その深い御旨を私たちはすべて測る訳には行かないのです。