■ 今日の「井戸掘り」
「帰ってきてください。主よ。私のたましいを助け出してください。」 詩篇 6: 1〜10A
■ 井戸を掘りましょう:
. .ダビデは、病いに陥った時、神が自分に対して怒りを抱いておられると感じていました。「主よ。御怒りで私を責めないでください」と言っています。すべての信仰者が、ダビデ同様に、そのように感じるのではありません。ヨブは3人の友人たちにいくら攻め立てられても、神が御怒りのゆえに彼を病いに閉じ込めているとは、どうしても考えられない、受け入れられない、、、と主張しては友人たちに反論しました。
. .先回書きしるしたように、病いは必ずしも個人的な罪と直接的に結びついているとは限りません。しかし、病いに陥った時、心に神の御怒りを感じたなら、病いの折を反省の機会として用いることは決して間違ったことではありまえん。人は、正確には罪と呼んではいけないのですが、無作為の罪に陥っていることがあります。無意識に人に対して悪を行い、傷つけていることがあるのです。無意識に、、、であるので、正確な意味では「罪」とは呼ばれません。それは過誤です。病いの折に主の御前に静まって反省することによって、それまで気づかなかった過誤にふと気づかされることがあるでしょう。無意識になされた過ちも、その人がそれに気づいた時には、悔い改めない限り、罪に転じるのです。
. .苦しみの時、神の臨在が遠く感じられるのは、主の助けを求める思いが強烈だからです。自分ではどうにもできない状況の中にあって、それが病いであれ、その他の原因からくる苦境であっても、その中で、人は神の助けを求めて叫びます。神が近づいてくださり、御手を差し伸べて、その窮状から救い出してくださることを願うことは、ごく自然なことです。