. . フィリップの「井戸掘り日記」、第一のシリーズ「ダビデの生涯」に学ぶが終わりましたので、今回から第二のシリーズ「ダビデの詩篇」と題して、ダビデによる詩篇から水を汲みます。
「ダビデの詩篇」 に学ぶ : 第 107 講
■ 今日の「井戸掘り」

 「神は正しい審判者。日々、怒る神。、、、国民の集いをあなたの周りに集め、その上の高いみくらにお帰りください。」               詩篇 7: 1〜17  

  ■ 井戸を掘りましょう:

. .「冤罪」と言うことばを時折耳にします。人間のさばきには、判断の過ちがつきもので、検察局や裁判官は最善を尽くしているでしょうが、それでも尚、冤罪が生じます。罪のない人を罪と定めてしまうことが起こり得るのです。

. .ダビデは、それを知ってか知らないでか、人間の法廷に訴えるのではなく、神の法廷、決して誤った判決を出すことのない絶対的な法廷の働きに期待しています。ダビデにとっては、国家の法廷は、その国の頂点にサウロが君臨している限り、公正なさばきを期待することはできませんでした。冤罪どころか、無実の者が罪に定められること、否、裁きさえ行われないまま、処刑されることがあることを知っていたのです。

. .神が立ち上がり、「国民の集いを」ご自分の「周りに集め」、「その上の高いみくらに」お帰りになる時、すなわち「審判者」としてその座に就かれれば、その時に、ダビデは正義を期待することができ、公正なさばきがなされることを予測できました。なぜなら「正しい神は、心と思いとを調べられ」る神だからです。御前に隠れる者は何もありません。悪しき者の悪に対して、神が怒りを露わにされることが歌われています。近代の神学は、神学から神の怒りと言う題目を除いてしまいましたが、神は、今も不正・不義に対して怒りたもう神です。

. .神の怒り・憤りは、正しい者にとっては、実は慰めをもたらす事柄なのです。不正・不義・不法を行う者にとっては、それは恐ろしい概念でしょう。その神学から神の怒りを消し去った近代の神学者たちは、そのことによって、自らが罪ある存在であることを認めているのです。

高知県・越知町の大樽の滝


Copyright2004 PZH
All rights reserved. 許可なく転載を禁じます。

■ トップ・ページにもどる