. . フィリップの「井戸掘り日記」、第一のシリーズ「ダビデの生涯」に学ぶが終わりましたので、今回から第二のシリーズ「ダビデの詩篇」と題して、ダビデによる詩篇から水を汲みます。
「ダビデの詩篇」 に学ぶ : 第 111 講
■ 今日の「井戸掘り」

 「このように行う人は、決してゆるがされない。」          詩篇 15: 1〜5A  

  ■ 井戸を掘りましょう:

. .この詩篇には、神が喜ばれる生き方が細かく記されています。「正しく歩み、義を行い、心の中の真実を語る人。その人は、、、」と続いているのです。ここで考えたいことは、詩篇の作者がこのような生き方ができるものとして書き綴っているのか、それとも他の意図があってのことなのかです。

. .ユダヤ教の信奉者は、それができる、期待されている、と受け止めて律法に生きようとしました。その結果は、自己義の追求・主張と言う更に神の御前に忌むべき心の状態に陥りました。

. .新約聖書の記者たちは、人間的な努力では、このような生き方をすることは不可能である、誰一人このテストにパスする人はいないと理解して、この課題に取り組みました。そして見出したのが、律法による義ではなく、信仰による義でした。すなわち、自分の行為の正しさによって神に受け入れられようと言う道ではなく、自分には一切、その資格がない、それにも拘らず、神は、御子イエスの十字架の贖いのゆえに、私たち、信じ依り頼む者たちを受け入れてくださるという理解・信仰を見出し、その信仰に立ったのです。すなわち、信仰の義によって、神に受け入れられる道を見出したのです。

. .「だれが、あなたの幕屋に宿るのでしょうか。だれが、あなたの聖なる山に住むのでしょうか」。この質問・疑問への答えは、律法の義・自己の義を求めることを捨てて、神の義・信仰の義に依り頼んだ人が、、、となります。

. .しかし、誤解してはなりません。そのように義を受けた人々は、恵みによって、はじめて「正しく歩み、義を行ない、心の中に真実を語る」ようになるのです。キリストの義を着せられるだけではなく、キリストに似た者に変えられて、キリストの歩み給いしごとく、自らも歩むようになります。そのような実質的変化なくして、キリストの義を着せられたというのでは、贖いの御わざも空しくなりかねません。キリストにある贖いは、人をして義人として神の御前に歩ませる神の力です(ローマ1:17)。

高知県・越知町の大樽の滝


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