. . フィリップの「井戸掘り日記」、第一のシリーズ「ダビデの生涯」に学ぶが終わりましたので、今回から第二のシリーズ「ダビデの詩篇」と題して、ダビデによる詩篇から水を汲みます。
「ダビデの詩篇」 に学ぶ : 第 121 講
■ 今日の「井戸掘り」

 「神へのいけにえは、砕かれた霊。砕かれた、悔いた心。神よ。あなたは、それをさげすまれません。」     詩篇 51: 14〜17 

  ■ 井戸を掘りましょう:

. .宗教の中核に何があるべきかを、ダビデはこの聖句によって語っています。宗教の中核は「砕けた霊・悔いた心」にあります。他にどのような行があったとしても、この「砕けた霊・悔いた心」が伴わなかったら、その宗教は偽善に他なりません。

. .ダビデの時代の旧約の宗教・ユダヤ教は、律法の規定に従って神殿にいけにえを捧げることから成り立っていました。しかし、そのような宗教行事は「砕けた霊・悔いた心」が伴っていませんでした。むしろ、傲慢がつきまとい、高慢が見え隠れしていました。

. .ダビデから200年ほどたって、預言者イザヤの時代になっても、ユダヤ教は変わりませんでした。いけにえをささげると言う宗教行事は盛んに行われていたのですが、それと同時に、社会における圧制や暴虐が幅を利かして、やもめや孤児は顧みられることがありませんでした。公正がユダヤの社会から失われていたのです。預言者はそのことを手厳しく指摘します。「砕けた霊・悔いた心」のないところに、正義・公正の花は咲かないのです。

. .ダビデは、そのことを知って、いけにえに勝って「砕けた霊・悔いた心」の大切さを、この詩篇で強調しています。このような霊の見られないところで、いけにえが捧げられても、神は、その「いけにえを喜ばれません。全焼のいけにえを望まれません。」

高知県・越知町の大樽の滝


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