. . フィリップの「井戸掘り日記」、第一のシリーズ「ダビデの生涯」に学ぶに続いて、第二のシリーズ「ダビデの詩篇」と題して、詩篇のうち「ダビデによる」、「」ダビデの讃歌」などと題されている詩篇から水を汲んできました。それもいよいよ、詩篇51篇をもって最終回を迎えました。
「ダビデの詩篇」 に学ぶ : 第 122 講
■ 今日の「井戸掘り」

 「そのとき、あなたは、全焼のいけにえと全焼のささげ物との、義のいけにえを喜ばれることでしょう。」     詩篇 51: 18〜19 

  ■ 井戸を掘りましょう:

. .心の伴わない宗教行為は、神は蔑まれ、忌み嫌いなさいます。しかし、心が、すなわち「砕けた霊・悔いた心」が、伴った宗教行為を、神は受け入れてくださり、それを蔑むことはなさいません。

. .この詩篇51篇は「どうか、ご恩寵により、シオンに慈しみを施し、エルサレムの城壁を築いてください」と言う祈りで締め括られています。ダビデは、一個人と言うより、一国の王としての立場にあって、この祈りを捧げています。

. .ダビデのように、地位が高ければ高いほどその影響は広範に及びます。それが良い感化であったなら素晴らしいのですが、この詩篇の背景となっているような悪事の影響の場合は、上に立つ者にとって苦しいものです。個人的な罪の行為ですが、その結果は個人に留まらないで、国全体にその害毒を及ぼします。

. .ダビデが願い求めたことは、他の何にも勝って、神の慈しみ、ご恩寵、そして、神のご嘉納・喜びでした。それなくしては、国は成り立ってゆかないのです。どんなに法律の規定を厳しくしても、神の祝福のない社会には悪がはびこります。神の祝福・ご嘉納こそが、国家の真の安全なのです。ダビデが祈り求めたのは、石によって築かれた「エルサレムの城壁」ではなく、神の見守りという最も安全な城壁でした。神の見守りが与えられるとき、外敵の攻撃を恐れる必要はありません。ダビデの詩篇ではありませんが、46篇には「神はわれらの避け所、また力。苦しむとき、そこにある助け。それゆえ、われらは恐れない」と詠われています。

高知県・越知町の大樽の滝


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