. . フィリップの「井戸掘り日記」、第一のシリーズ「ダビデの生涯」に学ぶが終わりましたので、今回から第二のシリーズ「ダビデの詩篇」と題して、ダビデによる詩篇から水を汲みます。
「ダビデの詩篇」 に学ぶ : 第 13 講
■ 今日の「井戸掘り」

 . . 「あなたのしもべを、傲慢の罪から守ってください。それらが私を支配しませんように。そうすれば、私は全き者となり、大きな罪を、免れて、きよくなるでしょう。」.                詩篇19:12〜14 

  ■ 井戸を掘りましょう:

. .この詩篇の最後の文節は、ダビデの心の思いについて書いています。「あなたのしもべを傲慢お罪から守ってください。、、、そうすれば大きな罪を、免れて、きよくなるでしょう。」 ― ダビデのみならず、人の心には聖きを求める心、また、永遠を想う思いがあります。

. . 主イエスは「税金をカイザルに納めることは、律法にかなっていることでしょうか。かなっていないことでしょうか」と尋ねられた時、「カイザルのものはカイザルに返しなさい」と答えられました。しかし、それだけではなく「そして神のものは神に返しなさい。」と付け加えられたのです(マタイ22:15〜22)。ここで「神のもの」とのことによって、主イエスは何を指しておられたのでしょうか。ローマ時代、金貨・銀貨などにはカイザルの像が刻み込まれていました。それらはカイザルのものでした。「神の像」が刻まれている「神のもの」とは、それでは何なのでしょうか。それは神の似像に創造されたアダムの子らに他なりません。罪の現実の故に、人に刻まれた神の似像は著しく損なわれていますでしょう。しかし、キリストの目には隠されることがなかったのです。人は、損なわれていても「神の似姿」を有した特異な存在なのです。

. . この「神の似姿」こそが、人をして罪にまみれながらもなお聖きを慕い永遠を想わせるものであって、人を人たらしめているものです。人の心のこのような成立ち、また、働きを想う時、自然界、また神のみことばに並んで、人の心と通しても、創造主である神は自らを証ししておられることを知ります。人は創造主である神との関係を否定することはできません。「私の口のことばと、私の心の思いとが御前に、受け入れられますように。」とはダビデの祈りでした。神のご嘉納を頂きたい、そして、祝福していただきたい、これは人の心にある自然な思いです。ただ、多くの人は、その真の神を見失って、異なった神々を求めています。そこにアダムの子らの悲劇、また、その理由があるのです。

. . ダビデは、この詩篇の締め括りで、「わが岩」、「わが贖い主」、「主」という三重の表現をもって、神に呼びかけました。「わが岩」は、主のみ守り・支えの事実、「わが贖い主」は、主の赦し・救いの事実、そして「主」は、主の支配・権利を指しています。私たちも、ダビデの神を「わが岩」、「わが贖い主」、「主」といて認めますでしょうか。最初の二つの表現につけられた「わが」と言うことばの意味合いは言うまでもありません。

高知県・越知町の大樽の滝


Copyright2004 PZH
Allrights reserved. 許可なく転載を禁じます。

■ トップ・ページにもどる