. . フィリップの「井戸掘り日記」、第一のシリーズ「ダビデの生涯」に学ぶが終わりましたので、今回から第二のシリーズ「ダビデの詩篇」と題して、ダビデによる詩篇から水を汲みます。
「ダビデの詩篇」 に学ぶ : 第 14 講
■ 今日の「井戸掘り」

 . . 「あなたこそは私のすわるのも、立つのも知っておられ、私の思いを遠くから読み取られます。、、、そのような知識は私にとってあまりにも不思議、あまりにも高くて、及びもつきません。」.                詩篇139:1〜12 

  ■ 井戸を掘りましょう:

. .ダビデは神が自分の立居振舞い、ことば、思い、そのすべてを知っておられることを意識していたのです。それはダビデにとって不思議と思える知識でした。それはダビデのこころに感動を呼び起こし、畏敬の念をもたらす素晴らしい知識でした。

. . ある人々にとっては、「神の全知」という聖書のおしえは心に恐怖をもたらします。彼らは「神は決して見はしないのだ。」(詩篇10:11)、それゆえ知ることはないと決め込んで、それを良いことに悪事を重ねているのですから、、、。彼らは神に知られたくないのです。しかし、ダビデは違いました。彼の行動は神を自分の前においての行動でしたから(詩篇16:8)、神が知っておられると言うことは、彼にとって慰めであり励ましであったのです。

. . 詩篇16篇で「私はいつも私の前に主を置いた」と言うことばによって表明されている真理は、この詩篇では「あなたは前から後ろから私を取り囲み、御手を私の上に置かれました」(5節)という表現で言い表されています。神のいと近き臨在の意識です。そしてその意識・自覚は「神の遍在」の真理へと展開されていっています。「私はあなたの御前から離れて、どこへ行けましょう」(7節以下)。「私が天に上っても、、、よみに床を設けても、そこにあなたはおられます!」

. . マタイの福音書によると、私たちの主イエスの地上での、弟子たちに対する最後のことばは「見よ。わたしは、世の終わりまで、いつも、あなたがたとともにいます。」だったとあります。ルカの福音書は、主の「臨在・同行」が「父の約束してくださったもの」が送られることによって実現することを語って終わっています。

. .ダビデは旧約時代の人ですから、私たちが整理しているようには聖書の真理を整理して理解することはなかったでしょう。しかし、「あなたの聖霊を、私から取り去らないでください」(詩篇51:11)というダビデの切なる祈りは、主の臨在・同行が、聖霊なる神によって可能とされるということを、彼が体験的に知っていたことを証ししているのではないでしょうか。

高知県・越知町の大樽の滝


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