■ 今日の「井戸掘り」
. . 「主は私を緑の牧場に伏させ、いこいの水のほとりに伴われます。主は私のたましいを生き返らせ、御名のために、私を義の道に導かれます。」. . . . . 詩篇23:2,3
■ 井戸を掘りましょう:
. . 主イエスは、ご自分を「良き牧者」として描かれました。そして、羊の牧者の第一の働きとして「自分の羊をその名を呼んで連れ出」すことであり、「その先頭に立って行」くことだと仰いました。羊飼いの第一の仕事は羊を導くことにあります。私たちは主に導かれる時、それが「緑の牧場」、また「いこいの水のほとり」であるなら喜んで従ってゆくでしょう。
. . しかし、それが「義の道」であるとき、どのくらい喜びを持って従うことができますでしょうか。曲がったこの社会にあっては、真っ直ぐ活きることは決して容易ではありません。邪悪な社会にあって「義」を貫こうとすると摩擦が起こります。私たちはそれでも「義の道」を主に導かれてまっしぐらに進むでしょうか。最近のニュースは、多くの企業における組織的な不正を暴いています。こうした企業で仕事をしているクリスチャンであったとして、私たちは「義」に従って内部告発を辞さないでしょうか。それとも長いものに巻かれて生きる道を取りますでしょうか。
. . 預言者イザヤは、信仰と社会正義に生きることは車の両輪のようなもので、切り離すことができないことをイスラエルの民に教えました(イザヤ1:10〜27)。当時、神殿での宗教行事はいつもどおりになされていました。しかし、問題は、それに伴うべき社会での正義が曲げられていたのです。主なる神は「もう、むなしいささげ物を携えてくるな」とまで仰います。なぜなら、信仰は信仰としてその義務を果たしながら、他方、悪事がなされていたからです(イザヤ1:17)。
. . この世を離れて修道院の隔離された壁の中に入ってしまって、この世と断絶してしまえば生きやすいことでしょう。しかし、神の民は「この地の塩、この世の光」として立てられていることを思うとき、そうはできません。曲がった、汚れた曲がったこの社会にあって、主の導きに従って「義の道」を辿るのがクリスチャン・ライフの使命なのです。