. . フィリップの「井戸掘り日記」、第一のシリーズ「ダビデの生涯」に学ぶが終わりましたので、今回から第二のシリーズ「ダビデの詩篇」と題して、ダビデによる詩篇から水を汲みます。
「ダビデの詩篇」 に学ぶ : 第 3 講
■ 今日の「井戸掘り」

 . . 「たとい、死の陰の谷を歩くことがあっても、私はわざわいを恐れません。あなたが私とともにおられますから。あなたのむちと杖、それが私の慰めです。」. . . . . 詩篇23:4 

  ■ 井戸を掘りましょう:

. . 信仰生涯を辿っていて「死の陰の谷」といえるような、希望が失われていまった暗い状態の中を歩むことがない訳ではありません。そのような時、信仰者はどのようにしてその危機を乗り越えることができるのでしょうか。

. . ダビデは、すべてのものが失われたように思える状況の中で「主がともにおられる」という事実に安んじていました。ダビデにとって主はすべてのすべてであって、主さえ共に居られるなら、他のすべてを失っても、なお希望を見出すことができたからです。

. .それとは逆に、すべてを持っていても主の臨在・同行がなかったなら(出エ33:15)、持っているすべては何の役にも立たたないということを、私たちはどのくらい確かに、また深く頷いているでしょうか。この自覚こそ、ダビデにとって揺るがない信仰の基盤だったのです。「主がともにおられる」―これこそダビデにとっての最大の祝福なのであり、他の物をもってしては代えることのできない祝福だったのです。

. . 主の臨在・同行が何故そんなに大切なのでしょうか。ある人々は主ご自身と主の賜物とを切り離して考えます。それですから、主の賜物さえあればそれでもやっていけると考えます。しかし、ダビデにとっては、主ご自身と主の賜物とは不可分の関係にありました。主を見失うことは、主の賜物のすべてを失うことであり、主の臨在・同行があるとき、その賜物はすべて主とともにあることをダビデは弁えていたのです。

. . さて、主が私たちに対して使われる道具のうち「杖」と「むち」が最も大切な道具です。「杖」は慰安・導きのため、「鞭」は矯正・訓練のためのものですが、私たちはその双方を必要としています。慰めがありませんと人は試練や労苦に耐えられません。訓練がないと人は我が侭・自己中心的になってしまします。両方のバランスが取れて初めて、人は「義の道」・主の道に歩くことができるのです

高知県・越知町の大樽の滝


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