. . フィリップの「井戸掘り日記」、第一のシリーズ「ダビデの生涯」に学ぶが終わりましたので、今回から第二のシリーズ「ダビデの詩篇」と題して、ダビデによる詩篇から水を汲みます。
「ダビデの詩篇」 に学ぶ : 第 4 講
■ 今日の「井戸掘り」

 . . 「私の敵の前で、あなたは私のために食事をととのえ、私の頭に油をそそいでくださいます。私の杯は、あふれています。」.                 詩篇23:5 

  ■ 井戸を掘りましょう:

. . 冒頭に「主は私の羊飼い」とあって、「羊飼い」のイメージで始まった詩篇一篇は、5節に来ると突然「羊飼い」のイメージから、「宴会」のイメージに切り替わります。ある註解書には「屋外」と「屋内」の対比があると書かれています。「宴会」のイメージでは、神はもはや「羊飼い」ではなく「客をもてなす主人」として語られています。

. . しかも、その宴会は「私の敵の前で」催されたものでした。人生の危険の真只中で豊かにもてなされ、くつろぎ楽しむ「客人」、それがこの部分における信仰者ダビデ、また、私たちのイメージです。人生に「敵」と言われるものの存在がなくなる時はありません。ペテロは「あなたがたの敵である悪魔(サタン)が、ほえたけるししのように、食い尽くす美着物を捜し求めながら、歩き回っています」と警戒しています(ペテロ第一、5:8)。

. .しかし、そのような敵の存在にも拘らず、また、そのことから生じてくる様々な人生の課題の存在にもかかわらず信仰者は凱旋的な生涯を送ることができるのです。パウロもローマ人への手紙に「私たちは、私たちを愛してくださった方によって、これらすべての中にあっても、圧倒的な勝利者となるのです」と書いています。主の愛がこのような生涯を可能とするのです。

. .「私の杯は溢れています」 ― 何と素晴らしい生涯でしょうか! 「私は乏しいことがありません」ではじまったこの詩篇は、「私の杯は溢れています」へと展開してゆくのです。主に導かれる生涯においては、乏しさを経験するどころか、溢れ、人々を潤すことが可能なのです。それは主イエスによって「わたしを信じる者は、聖書が言っているとおりに、その人の心の奥底から、生ける水の川が流れ出るようなる」と語られたクリスチャン生涯の預言です(ヨハネ7:38)。

高知県・越知町の大樽の滝


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