. . フィリップの「井戸掘り日記」、第一のシリーズ「ダビデの生涯」に学ぶが終わりましたので、今回から第二のシリーズ「ダビデの詩篇」と題して、ダビデによる詩篇から水を汲みます。
「ダビデの詩篇」 に学ぶ : 第 23 講
■ 今日の「井戸掘り」

 . . 「ご覧ください。あなたは、私の日を手幅ほどにされました。私の一生は、あなたの前では、ないのも同然です。まことに、人はみな、盛んなときでも、全くむなしいものです。」.                                      詩篇39:4〜13 

  ■ 井戸を掘りましょう:

. .悪者の前で沈黙を守る代わりに、彼の造り主・神に叫びだしたダビデの思いは、その人生の短さ・虚しさについてでした。「手幅」とは、ユダヤ人が物の長さを測る時に使った基準で「短い」ことを言い表しています。ヘブル詩の特徴である平行法が用いられていますので、次の行からそのことが判りますでしょう。

. .人生のはかなさ・短かさを思うとき、地上の人生における繁栄も空しくなります。舞台の上で「歩き回り」、「立ち騒い」でも、舞台が終われば、それらは幻にしか過ぎません。積み蓄えたものも、実際には誰の手に渡るのかを私たちは知らないのです。ここで強調されているのは人生の虚しさです。

. .ダビデはこの人生の空しさへの思いの中で「主よ。今、私は何を待ち望みましょう。私の望み、それはあなたです。」と信仰告白を書き綴ります。地上にあっては「旅人・寄留者」であって何も持たなくても、地上生涯が閉じられる時、ダビデの嗣業となってくださるのが神だからです。

. . しかし、問題は、ダビデが彼と神との関係が必ずしも良好でないことに気づいていることです。正にその事実が地上での繁栄が虚しくなってしまう原因なのです。「あなたは、不義を責めて人を懲らしめ、その人のの望むものを、しみが食らうように、なくしてしまわれます」(11節)。ダビデは神によって打たれていることを意識していました。

. .ですから、ダビデは更に祈ります「私の祈りを聞いてください。主よ。」ダビデが求めていることは、神に責められ、懲らしめられている状態・立場から解放されて、地上を去っていなくなる前に心に快活さを取り戻すことです(13節)。それは神との関係が修復されて、神のご嘉納を頂いていると言う自覚が戻ってくる時、初めて持つことのできる神からの祝福なのです。

高知県・越知町の大樽の滝


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