■ 今日の「井戸掘り」
. . 「『鳥のように、おまえたちの山に飛んで行け。それ、見よ。悪者どもが弓を張り、弦に矢をつがえ、暗やみで心の直ぐな人を射ぬこうとしている。拠り所がこわされたら正しい人に何ができようか』。」. 詩篇11:1〜7
■ 井戸を掘りましょう:
. .冒頭に引用したことばは、ダビデの友人たちによってダビデに言われたことばです。彼らはダビデに、サウルの追及を逃れて「鳥のように、、、山に飛んで行」くように助言しています。それに対してダビデは「主に私は身を避ける」と答えているのです。友人たちの助言の根拠は、一国の王が妬みに燃えて忠実な家臣のいのちをつけねらうような情況(2節)では「依り何処がこわされ」てしまった状態、このような中では「正しい者に何ができようか」と言うことにありました。
. . しかし、ダビデは、真の拠り所は地上における統治者ではなく、他にあることを知っていました。「主は、その聖座が宮にあり、主は、その王座が天にある」、これがダビデの自覚でした。地上の統治者は腐敗し、国家の法律は曲げられるような事態が起こっても、依然として、主は天にあってすべてを支配しておられる。神こそが真の統治者で、主が「正しい者と悪者を調べる」ということをダビデは頷いていました。「主は正しく、正義を愛される」のです。
. . それゆえ「直ぐな人は、御顔を仰ぎ見る」と語ってこの詩篇を締め括っています。信仰者にとって最大の危機は、主の御顔が曇ってしまって見えなくなってしまったときです。その御顔の光が輝いて見えている間は、地上でどのような事態が起こり来たっても、信仰者は揺るがされません。彼は地上の揺れ動くこと共に「拠り所」を求めないで、天にあってそこの王座に座しておられる方を仰ぎ見、そのお方に依り頼み続けているからです。「主に私は身を避ける」。文語訳では、「身を避ける」は「依頼めり」となっています。神を見失うことは、人生の基盤を見失うことです。それゆえ詩篇では、神が「わが岩」と表現されています。神はより頼み甲斐のある方、依り頼む者を決して失望させないお方です。