. . フィリップの「井戸掘り日記」、第一のシリーズ「ダビデの生涯」に学ぶが終わりましたので、今回から第二のシリーズ「ダビデの詩篇」と題して、ダビデによる詩篇から水を汲みます。
「ダビデの詩篇」 に学ぶ : 第 27 講
■ 今日の「井戸掘り」

 . . 「主よ。お救いください。聖徒はあとを絶ち、誠実な人は人の子らの中から消え去りました。人は互いにうそを話し、へつらいのくちびると、二心で話します。」.                            詩篇12:1〜8 

  ■ 井戸を掘りましょう:

. .恐らくエドム人ドエグが、ダビデについてサウルに様々と讒言した時の作でしょう(第一サムエル22:9、10)。この詩篇の特徴は人の罪がそのことばにあることを強調している点です。ドエグのみならず、神を知らない人は「互いにうそを話し、へつらいのくちびると、二心で話」すものです(2節)。ダビデは、主がそのようなへつらいのくちびると傲慢の舌とを、ことごとく断ち切ってくださ」るように祈っています。

. . ダビデに祈りに答えて、主は「悩む人が踏みにじられ、貧しい人が嘆くから、今、わたしは立ち上がる。わたしは彼を、その求める救いに入れよう。」と仰せられます。その主のお約束のことばは「混じりけのないことば、土の炉で七回も試されて、純化された銀」で、確かなものです(6節)。

. . ダビデは、このような人のことばから真実性が見失われてしまった社会状況が、偶像崇拝に起因することを指摘しています。「人の子の間で、卑しいことがあがめられているときには、悪者が、至る所で横行します。」(8節)。

. .現代人の多くは、宗教とは理性の暗かった前の時代の滓で、信仰は技術革新の時代には時代遅れ、必要ないと感じています。しかし、正しい宗教・信仰は、いつの時代にあってもその社会の倫理に深く関わっています。正しい宗教が軽んじられ、怪しげな信仰が幅を利かすようになると、その社会の道徳観念が低下します。また、道徳の低下は、社会を乱し、人々は益々怪しげな宗教に救いを求めて走ります。これは避けられない連鎖反応です。

. .人々は「我らはこの舌で勝つことができる。われらのくちびるはわれらのものだ。だれが、われらの支配者なのか」と豪語しますが、主は、裁きのために「今、立ち上がる」と仰せられるのです。

. . 高知県・越知町の大樽の滝


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