■ 今日の「井戸掘り」
. . 「主よ。いつまでですか。あなたは私を永久にお忘れになるのですか。いつまで御顔を私からかお隠しになるのですか。いつまで私は自分のたましいのうちで思い計らなければならないのでしょう。」. 詩篇13:1〜6
■ 井戸を掘りましょう:
. .7つの悔改詩(13、32、38、51、102、130、143篇)として分類されている詩篇の第一のものです。完全数の7に因んで7つの詩が選ばれたのでしょう。
. . 「いつまでですか」という悲鳴に似た叫びが冒頭に4回繰り返されています。多くの註解者は、このときのダビデの情況を病いに陥った情況と理解しています。しかし、ダビデの苦しみは病いそのものからではなく、その様を見て、彼の敵がダビデの信仰に攻撃をかけてきたからです。「いつまで敵が私の上に、勝ちおごるのでしょう」。ダビデの悲しみ・苦しみは、信仰が嘲られていることゆえの悲しみ・苦しみなのです。2節の「思い計る」(新改訳)は、他の翻訳では「思い煩う」(新共同訳)、「自分のたましいと格闘する」(NIV)などと訳されています。ダビデは問題の解決しないまま、重たい気持ちで一日中を過ごしていました。
. . そのダビデの苦しみ・悲しみは「私に目を注ぎ、私に答えてください」、「私の目を輝かせてください」(3節)と言う祈りとなって迸り出ます。神が目を注いでくださるということは「顧みて」(新共同訳)くださることであり、神が思い計ってくださることです。 祈りは、いつでも悲しみを喜びに、嘆きを賛美に、思い煩いを感謝に変えます。なぜなら祈りは答えられるからです。ダビデが依り頼んだ主の「恵み」は「慈しみ」(新共同訳)、「決して途絶えることのない愛」(NASB)などと訳されています。「主が豊かにあしらわれたゆえ」に、ダビデは喜び歌っているのです。
. . ダビデの祈りは答えられました。しかし、使徒パウロの祈りはダビデと同じようには答えられませんでした。パウロの場合のように病いが癒されないで「わたしの恵みは十分である」と語られるときも、私たちは主に歌い、主は「私を豊かにあしらわれた」ということができますでしょうか。