. . フィリップの「井戸掘り日記」、第一のシリーズ「ダビデの生涯」に学ぶが終わりましたので、今回から第二のシリーズ「ダビデの詩篇」と題して、ダビデによる詩篇から水を汲みます。
「ダビデの詩篇」 に学ぶ : 第 29 講
■ 今日の「井戸掘り」

 . . 「主よ。誰が、あなたの幕屋に宿るのでしょうか。誰が、あなたの聖なる山に住むのでしょうか。正しく歩み、義を行い、心の中に真実を語る人。」.                            詩篇15:1〜5 

  ■ 井戸を掘りましょう:

. .詩篇23篇の後半は、前半の「羊飼い」から、「客をもてなすあるじ」へとイメージが変っていることは既に心に留めました。この詩篇では「だれが」その主のもてなしに与ることができるのかを問い尋ねて、その資格を12項目述べています。

. .ここで問題となるのが「だれが」これらの12項目をクリアーして、客人となる資格に適合するだろうかと言う点です。「このように行う人は、決してゆるがされない」(15:5)。それは判っています。しかし、人は「このように」は行えず、そのようには生きられないところに課題があります。14篇を見ますと、明らかに「善を行う者はいない」(1節)と言い切っているのです。

. .旧約時代のユダヤ人たちは、律法に示された基準を生きることに、神のご嘉納の道・「義」があると考えました。それで律法を守ることを彼らの最大の関心事としたのです。しかし、使徒パウロはそのようなユダヤ人の律法理解そのものが誤りであったことを指摘します。律法は守るためにあるのではなく、それを守れないことを教えるために与えられたもの、人間の罪を示すためのものなのです。

. . そして、その罪の自覚から、人は贖い主の必要を認め、贖い主に向かって叫びます。その結果、赦しが与えられて初めて、人は主の「客人」になることができるのです。神の「幕屋に宿り」、「聖なる山に住む」ことができるのです。ここに贖いの御業の神秘があります。

高知県・越知町の大樽の滝


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