. . フィリップの「井戸掘り日記」、第一のシリーズ「ダビデの生涯」に学ぶが終わりましたので、今回から第二のシリーズ「ダビデの詩篇」と題して、ダビデによる詩篇から水を汲みます。
「ダビデの詩篇」 に学ぶ : 第 32 講
■ 今日の「井戸掘り」

 . . 「私は苦しんで、心にうめき、なきわめいています。、、、私の心は、うちにもだえ、死の恐怖が、私を襲っています。恐れとおののきが私に臨み、戦慄が私を包みました。」.                            詩篇55:1〜23 

  ■ 井戸を掘りましょう:

. .ダビデは、いくつの表現を並べ立ててその心の状態を描いているでしょうか。「苦しみ、うめき、泣きわめき、もだえ」そして「死の恐怖、おののき、戦慄」(2、4、5節)に捉えられている状態が述べられています。まことにピンチの只中にありました。原因は「敵の叫びと悪者の迫害、激しい怒り、恨み」(3節)のゆえでした。前後の詩篇の表題から判断して、サウルの殺意に苦しんでいた時期の作と考えるのが妥当でしょう。また19節の「昔から王座に着いている者をも」と言う表現もこの理解を支持しています。

. .ダビデは「ああ、私に鳩のように翼があったら、そうしたら飛び去って、休むものを。ああ、私は遠くの方へ逃れ去り、荒野の中に宿りたい」と言っていますが、それも一つの解決方法でしょう。しかし、根本的な解決にはなりません。一時的なものにすぎません。問題に直面した時、その問題に背を向けて、それを回避すると言うのは最善の解決方法ではないのです。

. .問題に対応するためのもう一つの方法は「神に呼ばわる」(16節)と言うことであり、「重荷を主にゆだねる」(22節)ことです。なぜなら「主は、、、救ってくださる」からであり、「主は、、、心配し」、「決して、正しい者がゆるがされるようにはなさらない」からです。ダビデは落ち着いた心をもって、敵対している者の様子を描写しています。「彼らは改めず」、「彼の口は、バタよりなめらかだが、その心には、戦いがある」「悪が彼らの住まいの中、彼らのただ中にある。」

. . それにしても、私たちは何故「重荷を主にゆだねる」ことができるのでしょうか。主は、私たちが直面している情況をすべてご存知であり、主のみが情況を支配できなさる方だからです。神の積極的なみこころ、許容的なみこころなどと分類・整理されていますが、起こり来るすべての事どもは、主である神のみこころを他にして起こらないからです。私たちが委ね切るとき、主は最も良い時にその干渉の手を差し伸べて、問題を解決へと運んでいってくださる方です。

高知県・越知町の大樽の滝


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