■ 今日の「井戸掘り」
. . 「力ある者どもが、私に襲い掛かろうとしています。主よ。それはわたしおそむきの罪のためでもなく、私の罪のためでもありません。」. 詩篇59:1〜17
■ 井戸を掘りましょう:
. .表題に拠れば、サウル王の使者がダビデを逮捕するためにその家を取り囲んだ時の作とあります。ダビデとすれば、ソウル王のため、又イスラエルの民のため、出て行っては全力を尽くして戦ったのに、、という思いでしたでしょう。「わたしのそむきの罪のためでもなく」、「私の罪のためでもありません」(3節)、「私には、咎がないのに」(4節)は、そのような雰囲気をよく表現しています。ダビデには身の覚えがないのです。
. . 自分の側に何の問題、失策もないのに責めを負わされることは、この世では良くあることです。そのような時、私たちは苦しみ悩みます。ダビデはどうでしたでしょうか。
. . ダビデは先ず祈っています。「わが神。私を敵から救い出してください」そして、その救いは敵の手が届かないほどに高いところに引き上げられることによってです(1節)。神ご自身がダビデの「とりで」(9、17節)、「逃げ場」(16節)なのです。ダビデが気に掛けているのは、自分の安全と言うよりも、彼に敵対する者たちの不敬虔な放言です。「彼らのくちびるには、剣がある。そして、『だれが聞くものか』と言っている」(7節)。彼らは傲慢に取り付かれて「神が地の果て果てまでも、ヤコブを治められることを」意識していないことでした(13節)。
. .ダビデの敵は、野良犬が食を求めて町中を走り回る様子に例えられています。「彼らは犬のようにほえ、うろつき回っている」(14節)。しかし、ダビデは安全です。神が目を覚まし(5節)、見守っていてくださるからです(9節)。否、それ以上に「恵みの神」が「迎えに来てくださる」(10節)からです。
. .このようにして敵の敗北を確信したダビデは、この詩篇の締めくくりには、神を「私の力」と呼んで、ほめ歌を歌っています。これはまさに使徒パウロの言う「圧倒的な勝利者」の姿です(ローマ8:33〜39)。