■ 今日の「井戸掘り」
. . 「あなたを慕い求める人がみな、あなたにあって楽しみ、喜びますように。あなたの救いを愛する人たちが、『神を崇めよう』と、いつも言いますように。」 詩篇70:1〜5
■ 井戸を掘りましょう:
. .詩篇第一篇には、表題にダビデの名が付せられていません。読み人知らずです。この詩篇には「正しい者」と「悪者」との対比が際立っています。一方は「水路のそばに植わった木」のイメージで語られ、他方は「風が吹き飛ばすもみがら」のイメージで語られています。
. . さて70篇に戻って、この詩篇に目を留めると、この詩篇でも二種類の人々の対比が際立っていることに気づきます。ダビデは、この二種類の人々がどのような人々であるかを描写し、そして、神に祈っているのです。
. . 一方に「悪者」がいます。彼らは、ダビデの「いのちを求める者ども」であり、ダビデの「わざわいを喜ぶ者ども」(2節)、「『あはは』とあざ笑う者ども」(3節)です。他方には「正しい者」がいます。彼らは神を「慕い求める人」であり、神の「救いを愛する人たち」です。
. . 現代にあっても、情況はそれほど変っていません。私たちの周囲には、否、私たちを含めて、人はこのどちらかに分類されます。「神を慕い求める正しい人」なのか、人の不幸や、神を「『あはは』とあざ笑う者ども」か、のどちらかです。
. .ダビデは神の救いを祈り求めていますが、神が彼の祈りを聞き届けられる時、「悪者ども」は、「はずかしめを受け」、「卑しめられます」。しかし「正しい者たち」は、いつも神を崇めようと言うでしょう。
. .世の人々は、自分が「悩む者」、「貧しい者」であることを認めたがりません。ラオデキヤの教会のように「貧しく、盲目で、裸の者である」のに、「自分は富んでいる。豊かになった。乏しいものは何もないと言って」(黙示録3:17)います。しかし、ダビデは、自分が悩む者、貧しい者であることを告白して、神に祈るのです。現代人に祈りが乏しいのは、現代人が、ラオデキヤ教会と同様、自分の実質を見損なって、自分は豊かであるかのように錯覚しているからです。祈る必要を自覚していないからではないでしょうか。