■ 今日の「井戸掘り」
. . 「主よ。私をあわれんでください。私は一日中あなたに呼ばわっていますから。あなたのしもべのたましいを喜ばせてください。主よ。私のたましいはあなたを仰いでいますから。」 詩篇86:1〜5
■ 井戸を掘りましょう:
. .表題に「ダビデの祈り」とつけられている数少ない詩篇です。ダビデの強さは祈りの祝福を知って、それを実践したことにあります。ダビデにとって主である神は遠い存在ではなく、直ぐ傍にあって祈りに耳を傾けてくださるお方でした(1節)。
. .ある人々は、「私は神を恐れる者です」(2節)と言うダビデの告白と「私は悩み、そして貧しいのです」という告白との間に矛盾を感じます。このような人々は、何故、神を恐れ敬う者が、悩み、また、貧しい状態に陥るのかと尋ねます。悩んだり、貧しさを経験することは、彼らの考えでは、信仰者にはありえないのです。このような人々は、信じる者は神の祝福によって、彼らの人生を楽しみ、また、豊かさを享受するものだと決めているのです。そのような人の信仰理解は、異教徒の信仰理解と大差がありません。彼らの信仰理解はご利益的と言えますでしょう。
. .しかし、聖書に語られている信仰は、決して人間中心のご利益的な信仰ではありません。確かに、信仰生涯には現世的な祝福が伴います。しかし、時に神は、崇高なみこころに従って信仰者を苦難の道に導き、そこを歩むことを可とされます。ヘブル人への手紙によれば「霊の父は、私たちの益のために、私たちをご自分の聖さにあずからせようとして、懲らしめ」なさるのです。私たちに訓練を施されるのです。
. .そもそも、ダビデが「私は悩み、そして、貧しいのです」と告白する時、それは通常の意味での「悩み」、「貧しさ」を意味して言っているのでしょうか。ダビデが感じていた「貧しさ」は、彼の霊的な貧しさであり、「悩み」もまた、霊的な悩みだったのではないでしょうか。
. .ダビデは、更に「私のたましいを守ってください」と祈っています(2節)。ダビデの関心事は、自分のたましいの状態が、主の御前にどのような状態であるかと言うことでした。ダビデが通過しつつある試練も現実には大変でしたでしょうが、ダビデにとってはそれが取り除かれることよりも、その中にあって、神が嘉してくださるようなたましいの状態を維持することのほうに、彼の関心事があったのです。