. . フィリップの「井戸掘り日記」、第一のシリーズ「ダビデの生涯」に学ぶが終わりましたので、今回から第二のシリーズ「ダビデの詩篇」と題して、ダビデによる詩篇から水を汲みます。
「ダビデの詩篇」 に学ぶ : 第 44 講
■ 今日の「井戸掘り」

 . . 「しかし主よ。あなたは、あわれみ深く、情け深い神。怒るのにおそく、恵みとまことに富んでおられます。」                            詩篇86:12〜17 

  ■ 井戸を掘りましょう:

. .5節にも「主よ。まことにあなたはいつくしみ深く、赦しに富み、あなたを呼び求めるすべての者に、恵み豊かであられます。」とありました。ダビデは自分が祈っている神が、どのようなお方であるかを正しく意識して祈っているのです。

. .祈りの営みで一番大切なことは、自分が祈っている神がどのようなお方かを知ることのほかなりません。聖宣神学院の月曜夜の合同祈祷会や家拝において、しばしば語られ、強調された真理がこのことでした。祈っているお方がどのようなお方なのかを自覚できれば、祈りは半分は終わったようなものである、と語られていました。

. . ダビデは、単に客観的に神がどのような方であるかを述べているのではありません。「あなたの恵みが私に対して大きく」(12節)と言っているように、それは個人的な神知識でした。「高ぶる者ども」、「横暴な者」(14節)は、神を「自分お前においていません」、すなわち、神は彼らにとって意識外にあるのです。しかし、ダビデは、神を自分の前に置きました。そして、神が「御顔を向け、、、あわれんでくださ」るようにと祈っています。ダビデにとって神は、いと近き存在でした。

. .この詩篇も「主よ。あなたの耳を傾けて、私に答えてください」と言う願い事で始まりましたが、その締めくくりには「まことに主よ。あなたは私を助け、私を慰めてくださいます」と言うことばがあります。嘆願は祈っているうちに、信仰の確信と変ったのです。それは、神がどのようなお方であるかを信仰によって捉え、その神に拠り頼んだからです。自分の重荷をすべてこのお方に投げかけることができたからです。ダビデにとって、神は「まことに、、、大いなる方、奇しいわざを行われる方」(10節)でしたので、その方にあって、ダビデは安んじることができたのです。

高知県・越知町の大樽の滝


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