. . フィリップの「井戸掘り日記」、第一のシリーズ「ダビデの生涯」に学ぶが終わりましたので、今回から第二のシリーズ「ダビデの詩篇」と題して、ダビデによる詩篇から水を汲みます。
「ダビデの詩篇」 に学ぶ : 第 46 講
■ 今日の「井戸掘り」

 . . 「主は絶えず争ってはおられない。いつまでも、怒ってはおられない。私たちの罪にしたがって私たちを扱うことをせず、私たちの咎にしたがって私たちに報いることもない。」                       詩篇103:6〜14 

  ■ 井戸を掘りましょう:

. .ダビデの信仰の原点がここにあります。ダビデによれば、私たちは皆、主の御前に咎ある者で、聖なる神の御前に立つことのできない存在です。しかし、あわれみ深い神は、私たちをその咎、また、罪にしたがって扱うことをされないで、私たちを赦し、受け入れてくださるのです。

. .それは、主が「私たちの成り立ちを知り、私たちがちりにしかすぎないことを心に留めておられる」からです。この詩篇には、人類が抱えている三重の課題が示唆されています。「罪」、「咎」は、人の背き易さを、「忘れるな」ということばは、私たちの忘れ易さを、そして、「ちり」は、人の脆さ、挫け易さを語っています。

. .主は、私たち人間がそのような存在であることを弁え知って、私たちが主を恐れ敬う時、主は私たちをあわれみ、「私たちのそむきの罪を私たちから遠く離して」くださいます。それは父の子に対する態度だとダビデは言います。

. .後にダビデは「幸いなことよ。そのそむきの罪を赦され、罪をおおわれた人は。」(詩篇32:1)と歌います。神は、罪をおおって、それに目を留め給わないばかりか、罪を私たちから遠く離して、それを全く忘れ去ってくださるのです。

. .その「御恵みは、、、大きく」、「天が地上はるかに高いように」(11節)大変崇高なものです。ここにダビデの賛美の理由があります。「私のうちにあるすべてのものよ。聖なる御名をほめたたえよ。」(1節)と詠う理由があります。

高知県・越知町の大樽の滝


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